平成22年(2010年)はNHK大河ドラマ「龍馬伝」を基盤にした所謂「龍馬ブーム」の年らしく、催し・行事・関連図書の出版などなど、坂本龍馬の周辺はすこぶる繁多に活況をていする。日経MJ新聞「2010年上半期ヒット商品番付」(6月16日付)には竜馬
が大関に位置づけるなど、経済的注目度もたかい。
(記事追補:「「高知の経済効果は4百億円超」龍馬ブーム活用へ自治体連携」(2010.11.16-47NEWS)、「「龍馬伝効果182億円 長崎経済研究所推計「景気下支え」」(2010.11.26-長崎新聞))
このような流行りの有無にかかわらず、龍馬は歴史上の人物中、企画モノのランキングでは毎回人気上位の常連と記憶するが、当然ひとの気うけは社会の思潮や流行に左右されやすく、永劫不変とは誰しもがいかない。戦中戦前なら今より忠君愛国的人物像に衆目があつまりやすく、評価の一指標としていきおい好まれもするし、近世なら仇討ちや痛快・荒唐な英雄譚に材をとる芝居・読みものが、中国白話小説の影響もあって比較的おおくみえる。楠木正成や山中鹿之介、曾我兄弟や源為朝・藤原景清など、知名度こそ過去のツミタテもあって現在も高いが、人気という段になると時々のかたよりを意識せざる得ないだろう。
現在の龍馬人気・評価には目立つぶんだけどりどりのモノがあって、信仰的賛嘆から悪意由来の讒謗まで、他の著名人同様さまざまである。龍馬が同時代人からうけた評価なら既に別ページにまとめているのでここでは略し、人気代わりに同時代の知名度に焦点をあて一寸ここでまとめてみる。
まず社会的地位が海援隊長就任以外、生前ほぼ無位無官無役でおわっている龍馬の場合、『武鑑』類に名の載る幕吏や藩の対外関係者とちがって、一般大衆にたいする知名度はもともとのぞむべき類いじゃないだろう。情報媒体に出現する頻度が人の認知度に如何に影響をあたえるか、メディア多様化になれた現代人なら実感として想像しやすいはずである。藩をぬけ浪士身分がながい場合や変名をつかって知人外から名実をくらます志士たちにとって、その道におけるとは知名度と大衆間の認知度は必ずしも比例しない。
史料上、龍馬が志士と評しえる人物とはじめて面談したのは、安政五年(1858年)一一月、住谷寅之介ら水戸遊説使の一行である。土佐入国の斡旋を龍馬と奥宮猪惣次に依頼すべく、このとき住谷らは面会をもとめた。奥宮をたよったのは同藩豊田亮と知己のゆえで、初対面とおぼしい龍馬をたよったのは『尊攘遺墨』連名帳に記名のツテを住谷が期待した [1] ものだろう。
撃剣家坂本氏
(『吉田健蔵日記』)、剣術指南坂本龍馬
(『住谷信順道中記坤』)、龍馬誠実可也ノ人物併撃剣家
(『住谷信順廻国日記』)という一行の評から当時の剣名は知れても、政治知識になると役人の名前さらに不知。空敷日ヲ費シ遺憾々々
(『住谷信順廻国日記』)とひどくからい。小千葉道場塾頭のゆえか剣名先行の知名度とのみ、ひとまず確認しておこう。
元号が安政から万延をへて文久にうつり龍馬も国ぬけをとげると、二年(1862年)夏ごろには上方の藩邸周辺や幕府老中にたいし、亡命者として名前が回覧 [2] されている。これが知名度向上に役だったとは当然おもわないが、幕府目付杉村正一郎による同年一二月から翌五月までの手記「浪士一件』に、浪士中のめぼしい人物として龍馬の名前が二ヶ所録上されている。
浪士一件 壬戌年十二月十三日松平主税助より差越候書面 [3] | |||
---|---|---|---|
清河八郎 | 池田徳太郎 | 石坂宗順 | 内藤久七郎 |
堀江芳之助 | 杉浦直三郎 | □塚行蔵 | 磯新蔵 |
大久保杢之助 | 坂本龍馬 | 松浦竹四郎 | 村上俊五郎 |
上下表中の人選は浪士取扱となる松平主税助の名で杉浦に提出されたもので、制作には清河八郎の書簡から清河本人がたずさわったものと察せられる。主税助が一〇月一八日に提出した上書によると、薩長等に寄属するものを始め、四方に散乱致し居候有志共
のうち、罪を犯し候者も寛太之ご処置にて御赦免有之、潜竄の苦を免れしめ何と歟一方之御用途に
もちいるのがその狙いで、これにより彼等素より義を以党を結び居候者どもに候得バ、其党之中近きに在者、三、五人を探し出して幕府の難有を知らしめバ、一封之書にても相集
るだろうとの見通しをのべる。
この計画当時、海軍方面にすすもうとする龍馬の意向もあったろう、登用は結局実現しないが、録上表中の人物たちは、つまるところ幕府が率先して赦免・懐柔することによって、他の浪士たちをも幕府にひきつけ宥和させうるとみこんだ政策上の看板たる人物群である。
『維新土佐勤王史』には、夫れ坂本龍馬其の人は、土佐勤王党の太陽系統に於る一個の彗星たり、故に必しも瑞山を中心とせる軌道を回転するものにあらずして、時に或は之に遠ざかり、時に或は之に近く、又此の彗星に吸引せらるヽ一、二の遊星をも有せり
、との文芸的麗句もみえるが、あながち舞文曲筆でもないらしい。
浪士一件 主税助より差越候姓名 | |||
---|---|---|---|
平野次郎 | 真木和泉 | 間崎哲馬 | 坂本龍馬 |
田中河内 | 藤本津之助 | 飯居簡平 | 世古格太郎 |
登戸一郎 | 原道太 | 水群善之助 | 宮部鼎蔵 |
大島三右衛門 | 伊牟田尚平 | 益満新八郎 | 枝吉杢之助 |
久坂玄瑞 | 西村藤蔵 | 土橋鉄四郎 | 松木右衛門尉 |
田尻新助 | 木村三穂助 | 西九帯刀 | 岡部正蔵 |
西貫之助 | 氏家謙之助 | 桜田藤助 | 戸津宗之丞 |
江田大之進 | 安積五郎 |
水戸の遊説使たちと接触した安政五年から約まる四年、この間土佐では江戸より帰国した武市半平太の主導によって勤王派が党をむすび、龍馬もトップグループでこれに加盟、その使者として讃岐をはじめ諸国を数ヶ月間めぐり帰国後脱藩をとげた。『酒泉直滞京日記』に、高知藩に勤王の議を唱ふるもの少なかりしが、小楯[武市半平太の実名]の帰りしより、後進子弟靡然として響きの如くに応じ、又同時に坂本龍馬ありて出でたり
、とみえるのがこの点表現上矛盾しないので、文久元年八月の勤王党結成以来、浪士中の有力者と目される下地が、一段内外有志間にたいしつちかわれたものと観ておきたい。
入国の斡旋を住谷が依頼した経緯、上掲酒泉の日記評から、水戸有志における龍馬の評判もあらあら想像がつくし、土佐では武市に重用されたこと、西部勤王派首領格の樋口真吉が藩外活動を坂龍飛騰
(『愚菴筆記』文久元年一〇月一一日条)と評して期待したこと、清河八郎が赦免ないし登用者の名簿に名をあげ、その一種「引力」に期待したことなど、龍馬の評価は低くない。松平春嶽や勝海舟と知りあう文久二年のすえ以前、志士としてはやくに中堅以上の名望が龍馬にはあったと断定してもいいだろう。
ついで勝塾時代の龍馬は春嶽の福井藩とことに交流がふかく、へりくだりのいらぬ姉には、ひとつのをゝきな大名によくよく心中を見込てたのみにせられ、今何事かでき候得バ、二三百人斗ハ私し預候得バ、人数きまゝにつかひ申侯よふ相成、金子などハ少し入よふなれバ、十、廿両の事は誠に心やすくでき申候
(文久三年六月二九日付龍馬書簡)、とうそぶく。福井藩側向頭取がしるす『御用日記』文久三年一一月七日条には金拾五両、土州藩、坂下龍馬江。右ハ御趣意有之、御手当として被下之
と、春嶽の御趣意
から龍馬にたいし一五両の支払いを確認できる。家族には誇張やホラも目立つ龍馬だが、事実は根も葉も相応あるらしく、名士の観がなくもない。
春嶽や海舟をつうじ、このころ交友圏に急速なひろがりをみせる龍馬だが、近年発見の龍馬書簡二通(文久三年六月乃至七月八日付、元治元年一〇月六日付)によって、他方で薩摩藩との交流も明確になり、『寺村左膳道成日記』文久三年二月二二日条の勤王論を以御国出奔。薩長之間を奔走し、頗ル浪士輩之名望アリト云
う評が裏付けられつつ注目できる。
勝塾閉鎖後、当然それまでの交流も活きたろう、薩摩藩に一党をひきつれ航海の手先
(元治元年一一月二六日付小松帯刀より大久保一蔵宛書簡)としてすべりこんだ龍馬は、海舟との面談以降、共和政治
(元治元年九月一六日付西郷吉之助より大久保一蔵宛書簡)への志向をつよめる薩摩藩首脳部の方針に相乗りし、薩長和解へうごきうだす。
去る元治元年(1864年)の蝦夷地開拓計画にさいし、幕府老中水野忠精側と事の交渉にあたっていた龍馬のことなので、閣老間には既知された存在。薩長和解の活動中また成立以降にもなると、幕府の探偵がきびしさをまし、肥後藩士上田久兵衛へ閣老みずから龍馬にかんし聞きとりをしたり、竹中与三郎や橋本久太夫といった龍馬知己・周辺への密偵潜入、伏見奉行所による寺田屋遭難と、もはやすっかり黒表中の人である。
後年、尾崎三良は慶応三年(1867年)のこととして、坂本が京都へ上った時は、才谷梅太郎という名で世間から目をつけられていた。ごく内緒で上ったのだが、それが世間に知れて半紙半枚ぐらいのものに聞書といって新聞のように配られたものである。私と同行上京した時も才谷梅太郎が浪士三百人をひきつれて来たとうわさが流れたが、三百人どころか、実は私たち三、四人であった
(『土佐 維新回顧録』)、と回顧する。世間注目度の証明になる話しだろう。
慶応二年以降には長崎や下関など、本拠ないし接触連絡先があるていど固定する事情もあって、変名の壁さえこせれば非関係者による龍馬訪問も難しくなく、社中や海援隊の士官には龍馬をたずね加入した人が、山本龍二・坂本清次郎・野村辰太郎など、わかるだけでもけっこういる。ほかにも下山尚や林謙三のように龍馬へ意見を質そうとやってくる人もいれば、中岡慎太郎や桂小五郎など、情報交換・挨拶かたがた意見をかわしに来る例もみえる。どうやら政局に距離をおく時分にも存在感はあるらしい。
この点慶応三年に、土佐から出奔を志願する姉をさとすさいつかった、実ニ龍馬の名と云ものハ、もはや諸国の人しらぬものなし。そのあねがふじゆうおして出て来たと云てハ、天下の人ニたいしてもはづかしく
(慶応三年六月二四日付書簡)、とする口実も事を有志間にかぎっていえば、あながち方便や誇張ともいえない。浪士之巨魁
(『寺村左膳道成日記』)・高名博論ノ人
(『復古記』
)・兼而有名家
(『黒川秀波筆記』)など、各評の裏付けとしても参考になる。
以上、慶応三年まであらあらながら時をおって龍馬の知名度につき、裏をひきひき述べてみたが、脱藩浪士という制約を考慮しても高い知名度が目につく。
龍馬の政治活動は武市・桂・西郷といった人々とことなり、藩の代表的立場に一貫してたつ機会がなく、文久から元治の海軍操練所建設は、同期の攘夷戦争にむかう朝幕諸藩のかけひきほど愁眉の政治課題というわけでは基本ないし、龍馬の仕事も舞台づくりや朝幕間における組織の位置づけ、人材育成にこそ力点があった。
慶応年間の薩長提携運動にしろ、大政奉還建白運動にしろ、龍馬のやっていることは基本裏方で、関係者以外では一部の事情通に活躍が知られることはあっても、非利害関係者や部外者には当然ながら役割を知られにくい活動である。知名度を考えるうえで、一応わすれちゃいけない部分だろう。
海舟が江戸で、聞く薩、長と結びたりと云。事実成る歟。[中略]坂龍、今長に行きて是等の扱を成す歟と。左も可有と思はる
(『海舟日記』慶応二年二月一日条)、と龍馬の薩長和解運動における活躍を聞知したり、近江の国学者西川吉輔が薩長合体の基本を開く人
と龍馬を認識していたりするあたりは、事情通にいれてもいいのだろう。社会情報に耳聡く、情報収集にも能動的で、なおかつ優良な情報経路を確保しているような人物でもないかぎり、手に入らない情報ではある。龍馬にかぎらず志士の知名度には、ある種のきわどさが同居するらしい。
生前の知名度は上記斯くのとおりだが、龍馬の死後まもなく明治初年あたりから『行餘集』や『歎涕和歌集』をはやいものに、『殉難草』・『興風集』・『近世殉国一人一首伝』・『振氣篇』・『有節録』・『近世報国志士小伝』・『近世報国百人一首』・『近世義士銘々伝』など、殉難志士たちを顕彰する諸書が世にでる。書籍には有名無名をとわず、多くの志士たちの名が載るものの、なぜか龍馬の名前はこのなかにみえない。
志士として一般に、どの程度認識されていたのか、怪しいものである。おそらくは無名に近かったのでだろう
(『歴史読本 一九九七年八月号』)とこれにかこつけて観る人もいれば、いっぽうで右掲番付表「近世報國赤心士鑑」をひき、龍馬の高位置にむしろ注目する人もいる。たしかに「どの程度認識されていたのか」を問題にするのであれば、序列化もされているぶん、先述諸書より参考になる資料だろう。
「近世報國赤心士鑑」の編者は西村兼文。明治三年くらいまでに青雲閣や城兼文名義での出版があり、さきの『殉難草』・『興風後集』・『近世殉国一人一首伝』・『有節録』・『近世報国志士小伝』の編者でもある。一部には『新撰組始末記(壬生浪士始末記)』の筆者といった方が、とおりもいいだろう。
番付の特徴は、大名・諸大夫・家老などの貴顕がまず高位にあって、学者や僧侶ほか、思想的指導者層・理論家層が欄外におおい。太字ながら最下段という特殊な位置には、安政の大獄や桜田門外・坂下門外の両変、寺田屋事件や池田屋事件、暗殺死や刑死など、著名事件の代表的人物、あるいは特異な死に方をした人々が目につく。
龍馬の位置は二段目東三番目。貴顕や特殊な位置の人々をのぞけばトップクラスの位置にあり、上位の東一番・二番目には禁門の変における長州主力の遊撃隊総督来島又兵衛と、清側義軍諸隊総管の久坂玄瑞が位置する。いっぽう西の一番・二番目には天狗党の乱における主将田丸稲之衛門と副将藤田小四郎がならび、かなり配置にも編者の意匠がうかがえる。禁門の変と天狗党の乱で番付配置を東西逆にできれば、変乱の発生現場とも対応し妙味もますところだが、東高西低の規範はまげられないらしく、次第不動
の欄外注記もじつは本心でなさそうだ。
やはり先述諸書での除外理由がおそらくは無名に近かったのでだろう
とは、これではさすがに思えない。
この点を私は単純に、採録すべき龍馬の詩歌が収載の対象・素材として編者らの手もとにもとより存在しなかっただけだろう、と観ている。
さきにあげた諸書は内容を一瞥していただければわかるとおり [4]、漢詩・和歌・遺文よりなる詩歌文集である。編纂の前提として採るべき材料がまず必要になるのは編集上明白で、人物の取捨も材の有無と無関係には当然すすめられない。私が編者らの手もとに龍馬の詩歌がないとみる主な根拠は、
中岡愼太郎道正の項には、
坂本立馬直柔(「立」の漢呉音はリュウ)の文字が小伝部にみえる。
丸くとも 一かどあれや 人ごころ あまりまろきは ころびやすきぞ[5] を除くと坂本家縁者にあたる弘松宣枝が執筆『阪本龍馬』(明治二六年)の登場まで待たなければならない。おそらく明治初期、龍馬詩歌は世にほとんど流布されていない。
ことによる。妥当性や如何だろう。
いずれにしろ無名ゆえ(不知ゆえ)とする理由では、同一編者による龍馬認知が確認できる点からしても肯んぜない。
とまれ、世のなかには龍馬を「幕末から明治初期まで無名にちかかった人物だが、明治一六年に自由民権運動土佐派肝煎りの『汗血千里駒』によって一躍有名となり、日露戦争のさいには宮内省田中光顕らを中心とする土佐閥の策略によって、皇后の御夢に登場したと戦意高揚のため宣伝されつくられた、いわゆる虚像の英雄である」といった趣旨で論ずる人がいる。
この論を今から十年以上まえ、90年代後半ごろにとなえられた人の論拠としては、薩長和解運動における龍馬の活躍にまず疑問符を投げつつ、明治初期の知名度についても先述諸書に不載な点をつき無名とする論拠にされていた。しかし知名度・不載理由については本稿でのべたとおり、不合理な理由づけと思われるし、薩長和解運動における龍馬の活躍についても、その後検証がさらにすすみ、龍馬の貢献を積極的に評価するながれで現在は落ちついている。
以上。こんなサイトを運営している手前、贔屓の引きたおしとも取られぬよう、論述には裏付けを重視してみたつもりだが、論の是非は読み手の判断にあとはゆだねる。
新日本古典文学大系 明治編(16)政治小説集一 | 山田俊治・林原純生(校注) | 岩波書店 |
坂本龍馬日記(上) | 菊地明・山村竜也 | 新人物往来社 |
坂本龍馬日記(下) | 菊地明・山村竜也 | 新人物往来社 |
異聞・珍聞 龍馬伝 | 松岡司 | 新人物往来社 |
維新草莽詩文集 新学社近代浪漫派文庫 | 新学社 | |
坂本龍馬全集 増補四訂版 | 宮地佐一郎(編)・平尾道雄(監) | 光風社出版 |
堂々日本史(7) | NHK取材班 | KTC中央出版 |
寺村左膳道成日記(二) | 横田達雄(編) | 県立青山文庫後援会 |
寺村左膳道成日記(三) | 横田達雄(編) | 県立青山文庫後援会 |
土佐 維新回顧録 平尾道雄選集(一) | 平尾道雄(編述) | 高知新聞社 |
勝海舟全集(18) | 勝部真長・松本三之助・大口勇次郎(編) | 勁草書房 |
清河八郎 | 小山松勝一郎 | 新人物往来社 |
土佐維新史料 日記篇 一 | 平尾道雄(編) | 高知市民図書館 |
樋口眞吉日記「遣倦録 愚菴筆記」 | 横田達雄(編) | 県立青山文庫後援会 |
坂本竜馬と幕府浪士取立計画 杉浦梅潭文庫「浪士一件」の紹介を兼ねて | 三野行徳 | 『歴史読本』2004.07 |
ついに解明!龍馬の花押 140点目の新発見書簡に記された花押の真偽を検証 | 桐野作人 | 『歴史読本』2010年4月号 |
歴史読本 一九九七年八月号 検証 坂本龍馬の全仕事 |
(平成二二年七月一一日識)