当コンテンツでも度々引用してきた史料のなかに『福岡家御用日記』という史料がある。
この史料は『龍馬のすべて』・『定本 新撰組史録』などの著者として知られる土佐維新史の大家故平尾道雄氏の手により紹介されたモノで、『坂本龍馬 海援隊始末記』における引用がその初見である(ただし同史料の存在自体は『坂本龍馬 海援隊始末』に表記済み)。
同史料はその名が示すように福岡家の用事や用命を記した日記帳であるが、平尾氏の伝えるところによると原本は既に昭和二〇年の東京大空襲のさい、灰燼に帰したと伝えられる。
現在、世に公表されている史料は平尾氏がかつて山内家家史編集所に勤務していたさい、予めメモしていた抄録で、残念ながら『福岡家御用日記』の全貌を知ることは出来ない。
この史料が公表されるにおよび、かつての龍馬伝記に見られた幾つかの事項が改められるなど史料的な価値は大きく、これまでも多くの歴史家や作家の参考にともしてきた。
しかし今現在、同史料に対する史料的価値については別稿などでも何度か述べてきたように疑問視する見解がみられ、史料としての扱いについては参考にする個々人の判断によって価値観にも差がみられる。
では、なぜそのように疑問視する声があるのかというと、結論からいってしまえば『土佐維新史料』に収録された抄録と他著にて引用される『福岡家御用日記』の抄録には相違点がいくつか見受けられるためである。
当コンテンツでは『福岡家御用日記』を引用する場合、該当事項において他著と重複があれば『土佐維新史料』から引用するを原則とした。ここでは一部重複となるが『土佐維新史料』以外に抄録されている「福岡家御用日記」を引用しておく(『土佐維新史料』版のものは江戸再遊・矢野道場・潜行活動・時勢切迫・腰間の一刀の各項に一部引用済み)。
●『福岡家御用日記」(『龍馬のすべて』)
〔安政五年九月四日〕御預郷士坂本権平弟龍馬儀、先年以来御暇以為武芸江戸表に罷在候処、昨日致帰着候旨届出候事。
〔文久元年〕一〇月一一日 御預郷士坂本権平弟龍馬儀、為剣術詮議讃州丸亀矢野市之丞〔市之進〕方へ罷越度願之趣聞届候事。
〔文久二年〕三月二五日 御預郷士坂本権平弟龍馬儀昨夜以来行方知不、諸所相尋候得共不明之届候事。
[文久二年〕三月二七日 御預郷士坂本権平所蔵之刀紛失之旨届出候事。
●『福岡家御用日記』(『土佐史談』)
〔文久二年〕二月二四日 晴 御預郷士坂本権平弟龍馬儀、去ル一〇月讃州丸亀に為剣術詮議罷越居候処、詮議不相済候ニ付彼地より芸州坊砂江立越候詮議致度候間、今二月迄月延之願旧冬相済候間、此度立川口入切手被仰付度趣を以差出都合三通差出及其手首尾。郷士牒ニ詳也。
〔文久二年〕三月二日 朝 御預郷士坂本権平弟龍馬儀、剣術詮議他邦江罷越居候処、去月二九日之夜致帰足候旨届出候ニ付、取次方江及届方郷士牒ニ詳也。
上記のうち『土佐史談』に引用されるものと『土佐維新史料』に収録されたモノとでは、基本的に天候の有無において異なり、一方『龍馬のすべて』に引用されたモノとでは、酷似した記述は見られるものの該当する日付そのものが『土佐維新史料』には存在しない。
まず『土佐維新史料』と題される一連の書籍だが、これは高知市民図書館に所蔵されている平尾氏の研究ノートを活字化出版したもので、言わば平尾氏が山内家家史編集所に勤務していたさいメモしたというメモの原本と考えられる史料集である。
このメモの原本と推定される研究ノートに存在しない記述など、一貫しない史料『福岡家御用日記』について、何人かの歴史家が疑問の声をあげるのもまた故無き事とはいえないだろう。
その主な疑問としては「記述に重複したような記載がある」・「他家の郷士を抱えた他の家老にも、このような『御用日記』があったという例を聞かない」・「天候の有無についてどう解釈すべきか」・「刀の紛失をわざわざ家老に届け出るものなのか」などの意見がみられ、一応ごもっともな疑問だという気もする。
しかし、記述が重複したように見えるという件については筆者も別稿で既に触れているし、酷似した記述についてもあくまで酷似してはいるが、内容的に重複や齟齬をきたしている訳ではない。
また他の家老の場合に見られないという意見にしても、日記中に記載がされるように「郷士牒」なる他の記録帳の存在が伺われ、あくまで『福岡家御用日記』が私的(もしくは家的)な手控えであることが想像できる。
この異なる記述法について、歴史家の菊地明氏は平尾氏が『福岡家御用日記』のうち龍馬に関する事項しか記録をしていない点に着目し、平尾氏は原本からではなく、二種類の抄録から別々の時期にメモを取っていたのではないか、との推測をしている。
しかし、筆者はこの意見について少々疑問がある。歴史家でもない筆者が、このようなことを述べるのも恐れ多いが、そもそも平尾氏は龍馬以外の事項についても『福岡家御用日記』からメモを取っており、それを他者へ教示したことが『岩崎弥太郎伝(上)』などから確認することができるのだ。また『福岡家御用日記』以外にも平尾氏の著書でのみ確認できる史料『寺田志斎日記』などが他にもまだいくつかある。
筆者はこれらの事を勘案して、平尾氏は高知市民図書館に残した研究ノート以外にも、研究ノートを所持しており件の『福岡家御用日記』も「もう一つの研究ノート」から引用したのではないかと推測する。
現在のところ結論の出しうる問題ではないが、少なくともまだ他に残るであろう「平尾氏の研究ノート」が発見されることを祈りたい。
(平成某年某月某日識)