天保六年〜安政五年
江戸再遊
仁井田浜での砲術稽古からほぼ一ヶ月の安政二年一二月四日、龍馬の父坂本八平が死去した。享年五十六歳。父の死に接した龍馬を千頭清臣『坂本龍馬』は「慟哭食を廃すること数日。安政二年は此の悲痛の裡に暮れたり」と評している。なお、坂本家の跡式相続は安政三年二月二日に許され、兄坂本権平が四代目の当主となった。
安政三年七月二九日、龍馬は嘉永六年に続き再度の江戸行きを藩へ願い出る。
●『福岡家御用日記』
七月廿九日
一、御預郷士坂本権平弟龍馬儀、武芸為修行江戸表江為罷越度、依之今辰八月より来巳九月迄御暇被仰付度、委細之嘆願差出取次方江及持参也。郷士牒ニ詳也。
この日付と剣術修行
(または武芸修行)の願いは『福岡家御用日記』に明記されていることなのだが、以前にも述べた通り『福岡家御用日記』は原本の確認できないことなどもあって、その記述に疑問を投げかける声がある。そのため黒船来航後のこの時分、悠々と剣術修行など許可されるはずがないとする見解も聞く。
つまり龍馬は藩命による臨時御用
で江戸にむかったのであって自費で剣術修行に向ったのではないとする意見だ。しかし龍馬の江戸再遊に先立つこと一五日ばかり、武市半平太も臨時御用
と剣術修行
の藩命を受け江戸へとむかっている。龍馬の本家は裕福なことでも知られる商家才谷屋。自力で修行すること自体容易で、なおかつ郷士の次男坊という軽い身分だ。さらに龍馬の他に剣術修行
が許されている人物がいる以上、龍馬の場合が同じであったとしも何ら不思議なことでも無いだろう。そもそも龍馬に「臨時御用」の藩命がくだったとする史料は確認できない以上、無理にこじつける必要もあるまい。
『福岡家御用日記』に話を戻すが日記によると龍馬は当初の願い通り来年九月までの国暇を八月四日に許され、手形を受け取ったのち二〇日に土佐を出立する。
●『福岡家御用日記』
八月四日
一、御預郷士坂本権平弟龍馬儀、剣術修行として江戸表江為罷越度願相済候旨取次方より申来り、其段権平へ切紙を以申達。郷士牒ニ詳也。
八月一九日
一、御預郷士坂本権平弟龍馬儀、剣術為修行自力を以江戸表江為罷越度、来九月迄御暇被仰付度願相済、廿日北山通爰許出足之旨届出御切手等且江戸御留守居役仲江添状夫々龍馬江相渡。郷士牒ニ詳也。
この日程を証明するかのように丁度一ヶ月後の九月二九日、土佐出立にあたって餞別を送られた相楽屋源之助に宛て江戸到着を知らせた手紙を送っている。手紙によると龍馬は築地中屋敷に入ったことを報じており、ここで武市半平太・大石弥太郎と同宿し、龍馬は江戸での日々送ることになるわけだ。
(平成某年某月某日識)