天保六年〜安政五年
龍馬と乙女
弘化三年、龍馬は数え年十二歳で小高坂の楠山庄助塾へ入門した。ある日、龍馬はここで上士の子息 堀内某と口論におよび、舌戦のすえ逆上した堀内が抜刀、龍馬へと斬り掛かって来たが従容と龍馬はこれを文庫のフタで防いだという。やがて堀内を取り押さえた学友たちは事の顛末を師の楠山に伝え、楠山は「非は堀内にあり」とこれを退塾せしめたが龍馬の父 八平も「龍馬もまた罪なきにあらず」とこれを退塾に処した。
これを機に塾での学問を廃した龍馬は同年に母 幸を亡くし、三歳年上の姉 乙女から以後、強い感化をうけ成長していくことになる。
「乙女子の体格亦龍馬に劣らざりし者と見え一夕龍馬過ちて乙女子の衣を着け、知らずして鏡川の納涼場に至り、傍人に教えられて漸く気付きし事なども有し」というから、その体格・女丈夫のほどが知れるだろう。
●千頭清臣『坂本龍馬』乙女評
坂本の姉乙女子は体格非常に大きく、坂本家の仁王と言われ、略文武の技に通じたる男勝りの女なりき。夜間或いは竹藪の中に入りてピストルを放つが如き、又弟龍馬の朋友と撃剣の試合をなすが如き、なかなかに通常織弱の婦人にあらず。又『太閤記』・『源平盛衰記』・『三国志』などの軍書類を愛読したり。そは多くは、貸本屋より幾千の損料を出して一時借り出せし書なりという。而して彼女の記憶は特に強く、一度目に触るれば、大体の道筋は明白に之を脳中に印象したり。弟龍馬の子供時代には、善く英雄談を試み、之を聞かしたりといえば、精神的に弟を教化する上に於て多大の効力ありしと思わる。
現在、龍馬を知る世間一般の認識としては「乙女」=「龍馬の母親代わりつとめた人物」といった観が強いように思う。わずか三歳年上の姉に母親の代わりがどの程度つとまったのかは怪しいが、十代半ばでの早婚が珍しくない当時、十五歳の乙女にもある程度のことなら出来たろう。しかし「母親代わり」という点に着目するなら他に適任者たる継母 伊予(はじめ北代氏)の存在が坂本家にはある。
乙女の場合、もっとも身近な存在として精神面での感化が大きな比重を占めるだろう。
二人の交流や乙女の人物について、いくつか証言を残っている。それを以下に紹介してみたい。
●お龍の談話(『千里駒後日譚』)
乙女姉さんはお仁王と綽名された丈け中々元気で、雷が鳴る時などは、向鉢巻をして太鼓を叩いてワイワイと騒ぐ様な人でした兄[権平]さんと喧嘩でもする時は、チャンと端座って肱を張って兄さんの顔を見詰め『それはイケませぬ』と云う様な調子でした。
[龍馬は]大変姉さんと仲好しで、何時でも長い長い手紙を寄しましたが、兄さんに匿して書くので『龍馬に遺る手紙を色男かなんかにやる様に、おれに匿さいでも宜かろう』と怒っていたそうです。
姉さんはお仁王と云う綽名のあって元気な人でしたが私には親切にしてくれました。私が土佐を出る時も一緒に近所へ暇乞いに行ったり、船迄見送って呉れたのは乙女姉さんでした。
●安田たまきの談話
「姉の乙女さんは、龍馬さんとは反対に体も大きく、肩も張って、ほんとうの女丈夫で、三十を過ぎてから『男を持っていては自由に身が振れん』と云って嫁入り先から帰って来た程の変わった人で、絶えず懐鉄砲を懐中にし、薙刀も盛んに稽古をして、わたし達にも『やってみぬか』とすすめられました。龍馬さんとはよく座り相撲やったものでした。こうした女丈夫を姉に持った関係から、龍馬さんも姉さんに激励される処が多かったろうと思います。
ほかに川島喜久(伊予が八平との再婚まえに嫁いでいた婚家 川島家の娘)や武市富(武市半平太の妻)なども乙女から薙刀の稽古をすすめられたという。北辰一刀流で「長刀兵法目録」を授かった龍馬の修行起源も辿り辿れば乙女からの教授に行きつくのかも知れない。
乙女の教育について後年、岡上菊栄(乙女の娘とも伝わるが是非には両論が有る)は
●『おばあちやんの一生 岡上菊栄伝』より
座敷を歩くにも小笠原流のすり足で、飲食等武家の作法通り[中略]寺子屋入りをして習字や考経の素読を受けるようになると、自宅では乙女からは別に『小学』・『大学』の講議を授けた。武術は小太刀懐剣手裏剣の外柔道騎乗水泳まで習った。[中略]一例に水泳をあげると[中略]丸裸かにして、その胴体を荒縄で縛り、縄尻を物干竿の先きへ括りつける。[中略]こうやられたら何が何でも手足をバタバタやつて体を浮かすようにせねば溺れるから、かの女[岡上菊栄]自然に泳ぎの要領を覚える。[中略]かの女の七才の時、かの女は懐剣を枕もとへ置いて寝ていたが、真夜中に何者かに揺り起された。四辺を見ると其所には黒頭巾の大男が突立つていた。[中略]母[乙女]の日頃の教訓はここぞと思つて懐剣の鞘を拂つて寄らば突かんと身構えた時、大男は覆面を取って母乙女の姿となり、ただ一語「それでよい」と言って立ち去った[中略]又一夜乙女は菊栄さんを呼んでこう云った。「イトよ、裏の塀へ板を立掛けてあるが、それを取って来てほしい」と。[中略]之について菊栄さんは嘗て私[宮地仁]にこう話した「その時分坂本家は随分広く、裏は水通まで抜けていて、土蔵が二つもあつたが、その前を通ると下駄がカンカン響いてトテも怖かつた。[中略]そして板塀の所へ行くと其所には大きな骸骨が光っていた。[中略]私は死にかまんで骸骨へ觸れると、それが母の言った板であった、この板は燐で書いたものだったが、私が取って歸ると、[中略]母は初めて肝だめしの魂胆から燐の説明までしてくれた
と伝えており、常日頃から人間はどんなに落ちぶれても決して尾籠の振舞はするな。人前で恥をかいたら何時でも死ね
と教えられたという。また父 岡上樹庵の死を悲しむ菊栄にむかい這いよる時にでも親は死ぬるぞよ。五才にもなって困るとは何事か。少しは肚を作れ
と叱咤しイトよ、大事の時には人間は泣かねばならん。天皇様や国の大事…其他に泣くものではない
と諭したとも伝えられる。
龍馬への教育も菊栄の例から類推するができそうだ。
(平成某年某月某日識)