嘉永元年、十四歳になった龍馬は坂本家から徒歩でほどちかい築屋敷の小栗流日根野道場へ入門する。小栗流は「小栗流和術」を標榜し、和術・剣術・抜刀術・鑓術・薙刀術・棒術・水泳・騎射・水馬など、諸芸教授にあたっていた。なかでも当時はもっぱら剣術におもきをおいていたようで、後年になると藩校致道館には剣術として、その教科に採用されている。
なお致道館では小栗流のほか、「無外流」・「一刀流」・「神影流」・「大石流」の計五流を剣術として採用。小栗流が当時、土佐でも指折りの剣流として認知されていたことがわかる。
師家日根野家は小姓組にぞくする士格家柄。ゆえに藩内芸家の一つにもかぞえられているが、三代目の日根野弁治吉善は郷士市川家から日根野家に養子入りした人物。そのため門弟には軽格の者が多かったとつたえれている。
お陰で日根野道場は多くの士格が通う他の道場と異なり、他流試合を奨励するができた。日根野弁治が樋口真吉ら他流試合に賛成し、それを積極的に導入したという事実は、門弟である龍馬にとっても技術向上の点で、大変ありがたいことであったろう。
ここでの修行が泣き虫と伝わる龍馬にとって、一つの大きな分岐点になったものか。別頁【龍馬詩評】と重複するが師範代(土居楠五郎)の孫にあたる人物、その証言を下に掲げておこう。
●土居楠五郎孫の談話
道場へ来て龍馬は心機一変、おねしょも泣き虫も一ぺんに飛んでしもうた。朝はまっ先に夕べは最後まで、飯を食わんでも剣道の稽古一筋。愉快でたまらん、おもしろうてたまらん。そんな気持ちでなんぼでもやる。『坂本もうよかろう』というと『先生もう一本、もう一本』といくらでもうってかかる。祖父[土居楠五郎]は外の弟子もケイコをつけてやらねばならんので、龍馬ばかりは困る。そこで体当たりをやると、体は大きいが若いのでぶっ倒れる。すると、はね起きてまたかかってくる。襟首をつかんで前に引き倒すと腹這いに延びる。それでもすぐ起きてまたかかってくる。この根性にはすっかり感心した。一度道場内の試合で龍馬が勝ち放し。二つも三つも年上のもの[兄弟子]をこの時は祖父も師匠達もびっくり。弟子達もびっくり、龍馬自身もびっくりということだった
ここでは龍馬が授かった免許状に記されている小栗流伝承者について簡単な紹介をしてみたい。
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小栗流(剣術・和術・抜刀術・水術・鑓術・薙刀術・棒術・馬術)
- ●小栗仁右衛門正信
- 小栗流開祖。徳川家康の小姓小栗又市の二男として三河に生まれる。のちに兄から知行を分知され旗本として独立。はやくから柳生新陰流 柳生石舟斎の門に学び、印可を授かったものらしい。一説には柳生門の高弟 出淵平兵衛盛次について同流を学んだとも伝えられる。柳生新陰流は剣・薙刀・柔・三道具・手裏剣・鉄扇・乳切木の七部門にもわたるが、正信は戦場での経験から新たな組討の必要性を感じ、同門の駿河鷲之助と切磋研究。柳生家の許可をえて一流小栗流を制定した。のちに「柔」の文字を嫌って「甲冑伝」とも「武者取り」とも称し、総じて小栗流和術といった。剣術を表芸、和術を裏芸に元和二年(1616年)、二代将軍徳川秀忠から裁可を得、翌年から門人の取りたてをはじめる。元和九年(1623年)には土佐藩三代目藩主山内忠豊に招かれて剣術を教授し、その門に学ぶもの生涯三千六百人に達したという。寛文元年(1661年)に死去、享年は七十三歳とも八十歳とも伝わる。
- ●朝比奈半左衛門可長
- 備後福山藩士朝比奈平兵衛の長男。幼くして父を失い、叔父にあたる土佐藩士朝比奈右京亮によって養育された。後年、江戸において水野流居合術 水野柳滴斎に学んで免許を授かり、伝系には「朝比奈夢道貫秦」との名をのこしたという。余談だが、この水野柳滴斎も小栗仁右衛門の門弟で、独立後は居合とともに柔術教授も行っていたらしい。この水野と朝比奈夢道の門から「新田宮流(居合)」・「真我流(柔)」を創始した和田平助政勝が出ている。正保三年(1646年)、土佐藩二代藩主山内忠義の小姓に取り立てられ、忠義の参勤交代に随従して再度江戸へ。今度は直接、小栗仁右衛門について学び承応二年(1653年)、一子相伝の奥義を授かり、その伝統を継ぐ。その後、二代から四代までの藩主に仕え、格式は馬廻に列し、この頃になると小栗流は「土佐藩和術」とも称せられた。天和三年(1683年)、五十八歳で死去。
- ●渡辺清太夫利重
- 朝比奈の門下は家老から軽格、果ては庶民まで広がり、その数は約二千人ともいわれた。そのなかで一子相伝を授かったのが朝比奈藤三郎という人物で、この藤三郎の土佐出国にあたり、秘伝を譲られたのが件の渡辺清太夫である。父の名を渡辺小兵衛、母は朝比奈半左衛門の姉にあたる。一説には江戸に出て心形刀流の伊庭家に学び、その長所を小栗流に取り込んだとも伝えられる人物。
- ●足達茂兵衛正藹
- 安達甚三郎正氏の二男。渡辺清太夫に小栗流を学び、その道統を継ぐ。宝永七年(1710年)、和術師匠役に召し出され、元文三年(1738年)に馬廻に昇格した。明和三年(1766年)、八十四歳で没する。
- ●足達甚三郎正靖
- 足達茂兵衛の養子で「長谷川流(居合)」を土佐へもたらした林六太夫の三男。足達茂兵衛のあとを襲う以前には無外流を修行し、その皆伝を授かった。養父足達茂兵衛について小栗流を学び、道統を継ぐ。小栗流においては、その和術に改良を加えたという。
- ●日根野弁次吉賢
- 山内家馬廻格日根野清蔵の三男。上記の足達甚三郎について小栗流を学ぶ。天明二年(1782年)、その腕を高く評価され、馬廻末子の身分で藩に取り立てられた。小栗流日根野道場初代。文化七年(1810年)に病死。
- ●日根野左右馬恵吉
- 安田三八郎の二男。小栗流を日根野弁次に学び、その腕を見込まれて婿養子として日根野家に入る。小栗流日根野道場の二代目。龍馬の入門当時も在命で、養子の日根野弁治とともに道場を切り盛りした。門下生には主として弁治が剣術を、左右馬が和術を中心に指導したという。嘉永五年(1852年)死去。
- ●日根野弁治吉善
- 「城下屈指の達人」と伝わる日根野道場三代目。【えにし】参照の事。