天保六年〜安政五年
薙刀目録
安政五年一月、龍馬は師の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を伝授された。この伝書は「免許皆伝書」と世に紹介されていたが現在では「剣術」ではなく「薙刀」の伝書である旨が多くの場で指摘されている。それは伝書に記された「型」と「北辰一刀流剣術全書」(同流で使われる型について説明した書物)の薙刀の項に紹介されている「型」と大部分が一致することからも疑いない。北辰一刀流は「初目録」・「中目録免許」・「大目録皆伝」の三段階に別れた伝位形式を取っており、件の伝書は伝授文句「家流始之書」から解り通り薙刀の「初目録」にあたる。
●「北辰一刀流長刀兵法目録」伝授文句
北辰一刀流長刀兵法稽古執心不浅組数相済、其上勝利之働依有之、家流始之書此一巻差進之候。猶不疑師伝以切磋琢磨必勝之実可有相叶候。仍如件。
ところで、この「長刀兵法目録」には千葉重太郎一胤
に続いて千葉佐那女
・千葉里幾女
・千葉幾久女
といった三人の女性の名が記されている。その内の一人・千葉佐那は龍馬と恋仲であり定吉が承認のもと、婚を約したと伝えられる。
龍馬を扱った最初の伝記『汗血千里駒』にも佐那の事と思われる女性が登場している。少し長いが以下に引用しよう。
●『汗血千里駒』
道場に誰とは知らず毎も面小手に身を固めしまま控えいさる一個の美少年あり。未だ其素面を見たる者は無かれども定めて高貴の御家の公達に在らすならんなど評しあえる事もありしが斯とは知らぬ村山は或日、千葉の道場に来たりし時、彼の美少年が只一個相人欲しげにいたると看るより村山は之ぞ周作氏の男ならんと思いしゆえ、軈て其前に至り慇懃に一礼なし「何卒、立合を願ひたし」とありしに那の少年も会釈し中央に出でて双方とも身構えして立向いしが其少年の迅業は陽炎、稲妻、水の月、眼を驚かすばかりにて中々当るべきようもあらず。村山は始終小児の如くにあやなされ、未だ一本も取り得ざれど其太刀当りは思いの外に弱かりし故「薄い薄い」と声をかけ小刻立合いたれども所詮、打物業にては協じとや思いけむ。心焦立ち組まんとするを爾はせじと少年は身を外にして打たんとせしが此時遅く、彼時速くも村山は遠背を延ばして難なく面垂無図と掴み力に任せて引しかば、面は忽ち外れたり。只見れば如何に少年は男にあらで香い翻る年も二八[十六歳]か二九[十八歳]からぬ島田髷なる乙女の姿に是はと駭く村山より、其娘は最と羞じらいながら顔に紅葉を散しつつ、奥の間投て逃げ入ったり。そも此女子を誰と聞くに乃ち千葉周作氏の息女にて名を光子と稱ぶ人なり。
[中略]
当日、龍馬は道場に在りて密に同門の高足より息女の来歴を具に聞き、有繁の龍馬も今日までは桃と分ち袖を断つの想を眷くる美少年を看たりしに何ぞ図らん城を築き、軍を編の気を有てる女丈夫ならんとはと数度感嘆なしてやまざりしが其日は藩邸へ立帰りぬ。
[中略]
坂本龍馬は一度、那の千葉家の息女光子を見染めてより、左右其面影の忘れられず[中略]光子の如き女丈夫は宛も広き江戸に再とあるべくも覚えず、吾も一個の男子、一個の剣客と生れ来りし甲斐には斯る女丈夫を妻に迎えて偕老の契りを遂るに至らば何程か愉快の極みならん。
上に登場する光子
のモデルが佐那であることは疑いないだろう(千葉周作にも娘はいるが、名は「きん」といって水戸の芦田氏へ嫁いでいる)。
坂崎紫欄は『汗血千里駒』を著するにあたって、龍馬の近親者へ取材を行ったというから当時も朧げながら、坂本家に龍馬と佐那の関係が伝わっていたということなのだろうか。しかし千頭清臣『坂本龍馬』は上記の光子と龍馬の関係を
●千頭清臣『坂本龍馬』より
千葉に一女あり光子という。芳紀まさに十有九。明眸玉のごとく、皎歯雪に似たり。夙に父に従いて武を練り、日ごろ男子に扮して諸生に伍す。諸生はいまだこれを知らず。ある日、光子があやまちてその面を脱ぐや、ようやく女子なるを知り、龍馬はために心まどい、一時その業を廃するに至りきと。これもとより後人の作為せる話柄のみ。
と否定している。確かに「光子」なる人物は存在しないのだから当然の説だろう。
話を佐那に戻す。龍馬の妻・楢崎龍は佐那について極めて辛い評を残しているが龍馬の証言と落差がありすぎるため信ずるに足りない(【詩歌・評】参照)。
逆に勘ぐれば(所謂、筆者の下衆の勘ぐりだが)龍が佐那をライバル視するような話でも龍馬がしたのかも解らない。まぁ、気になるといえば気になる話ではある。
天保九年三月五日、佐那は定吉の二女として生まれた。開祖・千葉周作から見れば姪にあたる。周作が起した北辰一刀流薙刀の伝系が佐那へと受け継がれていることからも解る通り、剣術とともに薙刀にも優れ「鬼小町」とアダ名された。「小町」と冠せられることからも察せられるように佐那は美人であったらしく、のちに龍馬は才色兼備を唱われた平尾加尾を引き合いに出してかほかたち平尾より少しよし
と姉乙女に伝えている。
維新後、龍馬の暗殺にともない生涯を独身で過ごし、学習院女子部へ舎監として奉職。学習院が華族女学校となったのちも引き続き勤務していたが明治十八年頃に辞職して「千葉灸治院」を開設する。この頃の佐那を伝える談話記事が二種類程あるので以下に紹介したい。
●「坂本龍馬の未亡人を訪ふ」
女史は剣道師範として名高き千葉家に生れ維新の交其齢未だ成人に至らず。夙に武術を以て諸候の邸に出入して子弟を教授せり。女史既に家の嫡嗣にあらず之れを以て厳君女史の出でて他に適帰するか否らずんは別家して所天を迎えんことを勧めて止まず。然ども時方に天下紛乱四方英傑の士剣を把って起ち、東遊西説事あれば即ち其頸血を将って社稷に濺がんとす。女史亦た私かに巾幗渺の身を以て国に尽すあらんことを期せり。其の所夫を求め家を営む如くは決して其志にあらざりしなり。是を以て厳君の百説千論、勿論其腑に落つべくもあらざりし。厳君遂いに女史を目して「汝は狂人なり」と絶叫するに至る。
此時其の未来の所天なりし坂本龍馬氏亦た剣を千葉家に学び熟女史の人と為りを観破したりけん。女史の厳君に就て伉儷を求む。厳君乃ち坂本氏に謂うて曰く「我女は狂人のみ蓋し卿の熟知する所、卿若し夫の狂人を娶るに意あらば我曷んぞ之を拒まん」と。因りて女史に其意を通ず。女史強る能わずして厳君の命に従い且つ「天下静定の後を持って華燭の典を挙げん」と謂う。厳君之を許し坂本氏亦之れを諾す。時に女史年廿一二。是に於て女史の家より聘礼として短刀を一口を坂本氏に贈る。坂本氏は云う「余に一物の聘礼に允つべきものなし。止むなくんば春嶽公より拝領して既に古びたる袷衣(桔梗の紋付けたるもの)一領を以て聘礼に代えんか」と。乃ち之れを千葉家に贈る。爾後、坂本氏は京師に九州に東奔西走し而して女史亦朝北暮南甞って定所なく、女史齢三十二三の頃坂本氏は即ち京師に横死し夫婦終生花晨月夕の歎を共にするの期なかりしなり悲むべきかな。
●「千葉灸治院」
私は幕末神田お玉ヶ池で北辰一刀流の道場玄武館を開いていた千葉周作の姪にあたり、父は周作の弟で桶町で道場を開き、桶町の千葉道場、また小千葉といわれていた千葉定吉の次女で、姉は夭折し、兄と二人の妹がありました。
土佐の坂本さんが私の家に入門してきたのは、嘉永六年四月で、坂本さんは十九歳、私は十六歳の乙女でした。坂本さんは翌年六月には帰国し、安政三年八月に再び私の道場に参り、修行に打ち込んでおりました。さらに一年滞在延期の許可を得たとかで引き続いて道場に滞在し父は坂本さんを塾頭に任じ、翌五年一月には北辰一刀流目録を与えましたが、坂本さんは目録の中に、私達三姉妹の名を書き込むよう頼んでおりました。父は『例の無いことだ』と言いながら、満更でもなさそうに三姉妹の名を書き込み、坂本さんに与えました。
坂本さんは二十四歳、私は二十一歳となり、坂本さんは入門した時からずいぶん大人っぽくなり、たくましい青年になっておりました。私も二十一歳ぽつぽつ縁談の話もありましたが私は坂本さんにひかれ、坂本さんも私を思っていたと思いますし、父も坂本ならばと高知の坂本家に手紙を出したようでした。坂本さんはその年の九月国に帰り、再び私の道場へは姿を見せませんでした。兄重太郎に聞けば勝海舟の門下生となり、勤王運動に参加し、江戸に来ても道場に来る間も無いだろうとの事でした。私は心を定めて良い縁談をも断り、唯ひたすら坂本さんを待ちましたが、忘れもしない慶応三年一二月、三十一歳なっていた私は坂本さんが一一月一五日京都で暗殺された事を知らされました。(中略)
私を世話してくれる人があって、明治十五年九月学習院女子部に舎監として奉職しておりました。その頃(明治十六年一月二四日)から高知土陽新聞に、坂崎紫欄という方が坂本さんの事を「汗血千里駒」という題で書き始め、後には単行本として出版され大変人気になりましたが文章の中に坂本さんが師匠周作の娘光子と恋仲であったという部分があります。坂本さんは伯父周作とは無関係で、光子という娘もありませんでした。多分私の事を書いたんだと思います。(紋服は)父が坂本さんに贈るために染めました。事に奔走し道場へもあまり来れなくなり私が切り取り、形見として持っています。「汗血千里駒」の誤りを正すため学習院でもずいぶん人に見せましたよ。
明治十八年九月、学習院女子部が華族女学校となり、校長に土佐出身の谷干城中将が就任し、引き続き勤務しておりましたが、谷中将が農商務大臣となり、教授下田歌子が校長の代理となりましたのを機会に学校を辞職し、千葉家に昔より伝えられている家伝灸を施して細々と暮らしております
佐那は明治二九年一〇月一五日、享年五十九歳で亡くなった。遺骨は灸治院へ通っていた自由民権家小田切謙明の妻・豊次の手により甲府へと分骨され、小田切家の墓所がある清蓮寺に今もねむっている。その墓石に刻まれた文字(「坂本龍馬室」)が龍馬と佐那、二人の交情を影ながら現在へも伝えている。
●文久三年六月一四日乙女宛龍馬書簡(八月説あり)
此のはなしは先ず先ず人に言われんぞよ。すこし訳がある。
長刀順付は千葉先生より越前老公へあがり候人へ、御申し付けにて書きたるなり。此人はおさなというなり。本は乙女といいしなり。今年廿六歳になり候。馬によく乗り、剣も余程手づよく、長刀も出来、力は並々の男子よりつよく、先ず例えば家にむかし居り候ぎんという女の、力量ばかりも御座候べし。顔かたち平井[加尾]より少しよし。十三弦の琴をよくひき、十四歳の時皆伝いたし申し候よし。そして絵も描き申し候。心ばえ大丈夫にて男子など及ばず。夫にていたりて静かなる人なり。ものかずいはず、まあまあ今の平井平井。
○先日の御文有り難く拝見。杉山への御願の事も拝見いたし候。其返しは後より後より。
(平成某年某月某日識)