天保六年〜安政五年
幻の御前試合
龍馬が剣術試合に参加したという記録は数種類ほどある。その記録のうちの一つに江戸鍛冶橋土佐藩邸で行われた武術大会があるが、これによると龍馬は「島田駒之助」なる人物と試合をして勝利を得たことが記されている。しかし現在この記録は「当時の事情にかなり精通したものによって偽作されたもの」との評価が定着している。
偽書とされる理由として
●史料によって試合結果が異なる。(結果の異なるものが三種類以上ある)
●同時代史料の『山内家日記』に該当する記述が無い。
●開催時期が史料によって一貫しない。
●出場者・桂小五郎の詳細な伝記『木戸孝允公伝』に該当記述がない。
●開催された当時、江戸にいるはずのない人物が出場している。
などが挙げられており、偽書とされる判断も至極当然なものだろう。偽書なことは疑い無いが折角なので試合表を下に掲げておく(「○」側が勝者で、両者「×」のものは引き分けを意味する)。
鍛冶橋土佐藩 御前試合 | |||
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馬淵桃太郎(×) 山脇熊太郎(×) | 柑村源次郎(×) 北村 源蔵(○) | 安田 勝馬(×) 名古屋千吉(○) | 美濃部民次(○) 大草藤九郎(×) |
平尾 五八(×) 森 三治(×) | 福富 健次(×) 桂 小五郎(○) | 相楽 雄蔵(×) 毛利荒次郎(×) | 坂本 龍馬(○) 島田駒之助(×) |
山本 卓馬(×) 小村 宗吉(○) | 大門 鎖(×) 真貝 寅松(×) | 徳弘 周蔵(○) 西脇源太郎(×) | 宮崎栄五郎(○) 高松 直記(×) |
市川 元江(○) 山岡左十郎(×) | 久松喜代馬(×) 羽島喜三郎(○) | 日根野弁馬(×) 松岡小太郎(○) | 甲藤馬太郎(×) 後藤 逸作(×) |
蒲生 藤市(×) 関脇 作吉(×) | 織田芳次郎(○) 斎藤 誠助(×) | 上田馬之助(×) 星野菊之助(○) | 富岡鉱之助(○) 五味政太郎(×) |
村上 圭蔵(×) 村川 宗助(×) | 小野重四郎(×) 奥田正五郎(○) | 松沢和太郎(○) 林 鉄太郎(○) | 浅田録之助(×) 笠井 吉人(×) |
松尾 陳吉(○) 中村 重吉(×) | 遠藤 才助(×) 丹羽 蔵人(○) | 菊池 寅吉(×) 石島喜太郎(○) | 水野 伊織(○) 小原久之助(×) |
永富第四郎(○) 佐治栄之助(×) | 越山勇太郎(×) 西山富次郎(×) | 丸山市之助(×) 岩堀隼之助(×) | 鈴木 辰也(×) 加藤八太郎(○) |
斎藤幾之助(○) 溝口 八郎(×) | 石垣文次郎(×) 富田熊次郎(○) | 坂部 大作(×) 小管駒之助(×) | 島村伊左尾(×) 石山 孫六(○) |
織田芳次郎(×) 星野菊之助(○) | 上田馬之助(×) 村川 宗助(×) | 松沢和太郎(○) 中村案太郎(×) | 安達武之助(×) 川村 雄蔵(○) |
斎藤四郎助(×) 村上 圭蔵(○) | 斎藤弥九郎(○) 海部 帆平(×) | 上田馬之助(×) 早田 千助(○) | 桂 小五郎(×) 斎田尾三郎(×) |
吉村為八郎(○) 松沢利太郎(×) | 井上尾次郎(×) 小川 武蔵(○) | 西山熊次郎(○) 松尾 陳吉(×) | 田島左右見(○) 蒲生 東一(×) |
福富 健次(×) 芝生 運次(○) | 関根 弥吉(×) 石山 孫六(○) | 岩永 杢蔵(○) 山田 広衛(×) | 馬淵桃太郎(×) 松岡小七郎(×) |
上記御前試合のほか、桃井春蔵の士学館で催された「撃剣会」にも龍馬は出場、桂小五郎と試合をおこなったとする記録がある。
しかし、これも偽書との評価がすでに定まっている史料が根拠になっており、その撃剣会の開催日は安政五年一〇月二五日のことになっている。
当時、龍馬はすでに江戸を離れている以上(九月四日に土佐へ帰着)、こまかな根拠説明するまでもないのだが「撃剣会」を伝える武市半平太の偽書を一部記す。
●武市半平太から小南五郎右衛門宛書簡(ただし偽書)
書翰を呈し候。先ず以て御三殿愈々御機嫌能御座遊ばさる趣き、恐悦至極に存じ奉り候。当地に於ては何の得所も之無く候得共、天下の形勢日増に切迫相成り、何と無く諸藩格位校候様見分け仕り候。去二五日桃井家撃剣会の由を以て案内に預り、当日は千葉両家を初め何れも先生株の寄合にて、最も強者と聞えたる長藩木戸準一氏数番の勝を制し、何れも出会うべき者も之無く候処、諸氏の勧により坂本龍馬立会と相成り候処、殊に龍馬爾来の勢と違い、殊の外盛にして十本の勝負互格と相成り、則十一本目切場の勝負と相成り、準一氏得意の上段にて打込む所を、坂本先を掛而双手突、図に中り準一氏の面抜け上りたり。其時見物の人々大声にてときの声、道場正に破れん計りの有様に之有り候。若し坂本負け候時は野生の順番と相成り候処、幸にして天下に恥をさらさざるは此上の幸に候。あまりうれしさに拙画を以て当日の有様を御高覧に供し候間、御一笑下され度、先ずは寒気御顧専一に候。筆未だ乍ら同士諸君へ宜敷く御伝声下され度、頓首再拝。
安政五年当時、桂小五郎は「木戸準一」を名乗ってはいないし、土佐にも「御三殿」という用語はない。さらに、武市半平太も前年すでに江戸を離れている以上、偽書との事実は疑いない。
また、この試合のほか、龍馬自身が差出人の偽書簡で、桂小五郎から三本取って勝ったことを伝えるモノもあるらしい。
以上、ともかく偽書が作成された当時(少なくとも昭和九年以前)から"剣客"坂本龍馬とのイメージが巷間にあったことは興味深い。なお「北辰一刀流長刀兵法目録」の発見は昭和三十八年(1863年)のことなので、目録の有無自体、この評価に関係はなさそうだ。
(平成某年某月某日識)