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黒船来航!〜江戸生活〜


 龍馬が江戸に到着した正確な時期は伝記資料からも詳しく解らない。『福岡御用日記』によれば三月一七日に土佐を出立したことになっているので、翌月の上旬から中旬には江戸に着いていたと見て良いだろう(『維新土佐勤王史』は四月上旬に到着したことになっている)。

 伝記では鍛冶橋の土佐藩邸(上屋敷)に入ったことになっている龍馬だが軽格身分の郷士では藩主やその家族が滞在する上屋敷ではなく築地にある中屋敷もしくは品川にある下屋敷に入ったと見るのが一般的な説だろう(後年、安政三年〜同四年までは築地中屋敷を利用していたことが武市半平太の手紙から確認できるので、このとき入ったのも中屋敷か)。

 余談だが溝渕家の御子孫の話によれば修行中、金が無くなった龍馬と溝渕広之丞は糠に塩をまぜて菜のかわりとし飯を食うことがあったそうである。

 北辰一刀流 小千葉道場で修行を開始した龍馬だが嘉永六年六月三日、ペリー提督の率いる艦隊が浦賀に来航する。世に言う「黒船来航」であるが同月六日には幕命が下り、土佐藩も藩邸のある品川近辺の警備につくこととなった。自費遊学中の龍馬にも「臨時御用」として召集の命が下り、同年九月まで品川藩邸につめていたことがその手紙からもわかる。この経験がのちに志士として成長する龍馬に大きな影響を与えたであろうことは想像に難くない。

 ここで現在に伝わる龍馬の手紙の中で、もっとも古い手紙を下に掲げておこう。

●嘉永六年九月二三日書簡

一筆啓上仕り候。秋気次第に相増し候処、愈々御機嫌能御座成らせらる可く、目出度千万存じ奉り候。次に私儀無異に相暮申し候。御休心成下らる可く候。兄御許にアメリカ沙汰申し上げ候に付、御覧成らせらる可く候。先ずは急用御座候に付、早書乱書御推覧成らせらる可く候。異国船御手宛の儀は先ず免ぜられ候が、来春は又人数に加わり申す可く在じ奉り候。
[中略]
御状下せられ、有難き次第に在じ奉り候。金子御送り仰せ付けられ、何よりの品に御座候。異国船処々に来り候へば、軍も近き内と在じ奉り候。其節は異国の首を打取り、帰国仕る可く候。かしく。

 この後、龍馬は砲術の必要性を再認識したのか、一二月一日付で佐久間象山の塾へ入門している。前年には既に溝渕広之丞が同塾へ入門しているから、その紹介によったものだろうか。

 佐久間象山は結果的に翌一月の吉田松陰の密航計画に連座し、四月六日には伝馬町の獄へ繋がれたため、龍馬が直接おしえを受けえた期間はごく短い時間で終わっている。

 なお判明している限りで佐久間塾に入門した土佐勤王党員は龍馬ただ一人である。

嘉永二年から安政元年まで「訂正及門録」に土佐出身として記載された人物のみ記載。
ほかにも嘉永五年、樋口真吉・山崎文助・桑原助馬らが入門したと伝わる。
佐久間象山塾 土佐藩入門者
溝渕広之丞弘田善助古田小膳山田大平
野中太郎阿部喜藤次衣斐小平山本大蔵
森沢録馬横田竟三郎井上佐市郎大庭穀平
谷村才八坂本龍馬野沢和泉大場義兵衛

(平成某年某月某日識)

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