天保六年〜安政五年
江戸へ
嘉永六年、龍馬は師の日根野弁治から小栗流の初伝に類する「小栗流和兵法事目録」を伝授された。この目録伝授が決まった頃だろう、『維新土佐勤王史』によれば龍馬は父八平に江戸修行を願い出、これを許される。『福岡家御用日記』によれば三月四日付で坂本家から龍馬の「武芸修行」の願いが提出され、一六日には通行手形が発行されている。なお、近年この『福岡家御用日記』の記述について、いくつかの疑問も提出されている。あくまで参考程度にするのが無難であろうか。
龍馬の土佐出立にあたり八平は『修行中心得大意』と題する訓戒状を龍馬に与えているが、海援隊士関義臣(山本龍二)の遺談によると、龍馬はこの訓戒状に「守」と自書して終生大切にしていたという。とりあえず下に件の書と出発にまつわるエピソードを掲げておこう。
●修行中心得大意
●土佐出立
龍馬江戸遊学の途に上りし際、親戚知己など龍馬を領石(高知の東北約四里)に送りたり。途上龍馬の姿を失い、一行驚いて尋ぬれども得ず。従弟山本琢磨、足を返して路傍の人に問えども知るものなし。かねて親しき家の門を叩けども応ぜず。さては人なきかと戸を排して内に入りしに何ぞ知らん、龍馬此にあり、行李を傍らに置き、壁に貼れる橋弁慶の錦絵(或は江戸名所園絵なりという)を眺めて恍然たらんとは。山本呼べども応えず、肩を打てば漸く気づき莞爾として道を急げりという。
この時、龍馬と江戸へ上ったのは溝渕広之丞とも野村榮造ともいわれるが確証はない。現在では溝渕広之丞と下駄履きで土佐を出立したという説が一般的な説と思うが、溝渕は嘉永五年の時点で江戸に居たことが確認できるので、わざわざ同六年に一旦土佐へ戻っていたのかどうか疑問視する声もある(時間的に無理はないので断定はしがたいように思うが)。
(平成某年某月某日識)