天保六年〜安政五年
修行満期
●安政五年某月乙女宛龍馬書簡(七月頃か)
[表面]
此状もって行く者に、先の大廻の荷やり所がしれん言われんぞよ。此男のに物じゃあきに、状が龍馬から来たけんど間違ったと御言い下さらる可く候。先便差出し申し候菖蒲は皆々あり付[根付くの意]申し候よし、夫々に物も着き申し候よし、其荷は赤岡村元作と申し候もののにて候。此状もちて行くものにて御座候。飯を炊いてもらい候者にて候。誠によき者故よろしく御取り成す可く成り下せられ候。大急ぎにて候故、御推量、御推量。
此節は○[金銭]がなく候故いけなく相成り申し候。私し帰りは今月の末より来[月]初めにて候得共、御国へ帰り候は暇取り申す可くと存じ奉り候。
又、明日は千葉[道場]へ、常州より無念流の試合ばかり
[裏面]
申し候。今夜竹刀篭手のつくらん故、いそがしく御状詳敷き事、書け申さず候。
かしこかしこかしこ
上は江戸から帰国する少し前、故郷の姉に送った龍馬の手紙である。
半紙一枚の表裏に書かれた手紙で、先に船便で送った荷物について注意をあたえたのち、この手紙を携えて行く者(赤岡村出身の元作)について説明を加えている。また「菖蒲は皆々あり付候よし」と先便で送った菖蒲の花が根付いたことを喜んでいるようだ。
当時の龍馬は金銭が少なくなっていたようだが私しかへりは今月の末より来初めにて候得共、御国へかへり候はひまどり可申と奉存候
と何処かへ立ち寄りながら帰国する旨を伝えている。
明日は千葉[道場]へ、常州より無念流の試合ばかり申候。今夜竹刀篭手のつくらん故、いそがしく御状くは敷事かけ不申候
と千葉道場で試合が行われるため、自分は竹刀や篭手を繕わなければならず、詳細な手紙が書けないことを断っている。この千葉道場が「小千葉」を指すものか「大千葉(玄武館)」を指すのか文面からは解らない。しかし常州より無念流の試合
と記されているのを鑑みて、水戸と縁の深い玄武館における試合だったのでは無いだろうか。ともかく、龍馬は竹刀や篭手を繕わねばならないと語っている以上、道場を代表して試合に出場する予定だったのだろう。
こののち龍馬は何時頃になって江戸を離れ、帰郷の途についたのか、正確な日付を知るすべも無いが千頭清臣『坂本龍馬』は
●武者修行(千頭清臣『坂本龍馬』)
此の年[安政五年]の春、龍馬は漸く業を卒へ、錦衣して郷に帰る、時に二十四。其の将に江戸を去らんとするや旅費を尽して之を師家に献じ、懐中別に一銭を遺さず、飄然として東海道を上る。曰く「是れ真の武者修行なり」と。
楽しき哉、此の旅行。昼は試合の謝料を得、夜は木賃宿に眠る。身にも心にも何の煩いなし。函嶺を越え駿馬を過ぎ、遠・三・南州を経て勢州津に渡る、津は藤堂和泉守の城下たり。龍馬此に滞留し、他流試合を試みること数日。剣客某、大に龍馬の伎倆に服し、礼を厚うして之を聘せんとしたるも天に沖するの野鶴、いかで人に飼るる鶏の群に入らんや。龍馬は辞して奈良に去り、京都に出て大坂に至り、此に便船を得て天保山を解纜すれば海上坦として砥の如く甲ノ浦室戸を過ぎ、九月浦戸に入り事もなく高知に入る。
と伝えている。安政五年の春に江戸を出立したとなると、些か早すぎる気もするが、上記の乙女宛書簡の発信時期が正確に判明しないうえ、書簡にも御国へかへり候はひまどり可申
と伝えている以上、時期についての断定はしないほうが良いだろう。
また出立のさい、龍馬は旅費を盡して之を師家に献じ
たという。乙女宛の書簡では金銭に欠乏した旨を伝えている龍馬だが、誤伝により件のような記述になったものか、それとも手紙を受け取った坂本家が急ぎ金銭を贈り、これを預け出立したものか。他にも出立など、符号する部分が多々見られる以上「武者修行」そのものは信じて良いのではないだろうか。
なお『汗血千里駒』でも同じく武者修行をしながら東海道を下った話が伝えられている(ただし千頭清臣『坂本龍馬』とは紹介する時期にズレがある)。
(平成某年某月某日識)