天保六年〜安政五年
小千葉道場
『福岡家御用日記』や伝記資料によれば龍馬は江戸へ「武芸修行」のため上府したことになっている。江戸では北辰一刀流の開祖である千葉周作の弟千葉定吉の門を龍馬はたたいたわけだが、その理由について
●鍛冶橋の土佐藩邸からも距離的に近く便利である。
●周作の玄武館の門弟は数千人ともいわれ人数が多すぎる。
●師である日根野弁治の紹介によって入門。
●姉である千鶴の夫つまり義兄高松順蔵の口添えによって入門。
●定吉や千葉重太郎の評判を耳にして入門を志願。
●老年の周作よりも若い定吉の方が有益だと考えて入門。
など様々な推測がなされている(推測の域を出るものではないが)。
定吉の千葉道場は「小千葉」・「桶町千葉」などと呼ばれ、周作の千葉道場(「大千葉」・「玄武館」・「お玉ヶ池」)と区別される。龍馬が入門した嘉永六年当時、小千葉道場は日本橋新材木町に在することが『江戸切絵図』から確認でき、翌年の一月には八重洲二丁目へと移っている。「桶町千葉」と称されたのはおそらく安政二年の大地震後、八重洲二丁目からさらに移転再建した道場先でのことなのだろう。
一家は当主の定吉に長男の重太郎、長女は夭折し、二女の佐那に三女の里幾、四女の幾久らで構成されている。なお龍馬の関係者で定吉および重太郎に師事した人物は安岡金馬・黒木小太郎・久松喜代馬・島村衛吉・村田忠三郎・北垣晋太郎・岡田星之助などがいる。
龍馬は『維新土佐勤王史』によると「道場に通い、後に其の家に寄宿して、昼夜剣道に丹精を凝し」たという。のち安政四年、龍馬は武市半平太と築地の中屋敷で同宿していることが武市自身の手紙から確認できるので『維新土佐勤王史』の記述に信をおくなら、藩邸と道場の両方を龍馬は利用していたことになる。確実とは言い難いが千葉家と龍馬の親しさを考えてみると道場にも寄宿した居たと考えた方が理解しやすいかもしれない。
余談だが武市も士学館に寄宿している旨を伝える手紙が確認できるので、藩邸と道場の両方を利用していたとしても別段、不自然ではないだろう。
(平成某年某月某日識)