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坂本龍馬の目録

天保六年〜安政五年

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墨雲洞〜河田小龍〜


 安政元年六月二三日夜、『福岡家御用日記』によると龍馬は懐かしい故郷土佐・坂本家へと帰り着く。嘉永六年三月から計算すると国暇の期間が十五ヶ月間だったことが解るが本来は十二ヶ月間だったものを臨時御用のため三ヶ月の延長を許されたのだろうとする見解もある。

 帰郷から二ヶ月が経過した閏七月、龍馬は小栗流の中伝目録を伝授され、齢二十にして「師の代理を勤め」るようになった。ちょうど当時は土佐藩にも他流試合の風が吹きはじめ、武市半平太の武市道場や樋口真吉の樋口道場、日根野弁治の日根野道場など下士層を中心とする道場では積極的に試合を奨励したと伝わる。龍馬も師範代として腕を振るう機会が多かったかも解らない。

 この年の一一月、のちに「寅の大変」と称される大地震が土佐を襲う。当時の日記によると一一月四日(翌日におきた地震のほうが大きかったため普通、土佐では「寅の大変」といえば翌五日の地震を指す)から安政二年前半まで大小の余震が続いたことが記されており、佐々木三四郎の「保古飛呂比」には幕府へ届けられた土佐藩の被害報告も記されているが話がそれるため、ここでは略す。不幸中の幸いに坂本家の住む上町は地盤が堅く、大した被害を受けることも無かったが継母伊予の実家北代家の家屋は倒壊。暫くは風雨をしのぐため坂本家の離れ座敷を利用させてもらうことになったらしい。

 なお口伝によると龍馬は伊予の婚家川島家の子息・龍太郎をつれている時に地震に遭遇したという。

 寅の大変から程なく、地震のため築屋敷に仮寓していた河田小龍のもとを龍馬は訪ねることになるのだが、その時の模様は諸所に紹介されていることなので、ここでは原文「藤陰略話」から小龍の自説を引用するに留める。ちなみに龍馬が小龍のもとを訪ねたのは伝記史料によると薩摩藩の軍備について質問するためだったらしい。

●『維新土佐勤王史

藩庁は大砲鋳立の方法を観察せしめんと、此の年八月筒奉行池田歓蔵・砲術師家田所左右次を鹿児島に派遣せし事ありと聞くや、龍馬は逸早くも其の随員たりし画家河田小龍に就きて、薩藩の軍備を問い、近世の戦術は日本刀の鋭利のみに頼るべからざるを悟りし

●小龍の説

「近来外人来航、已来攘夷開港諸説粉々たり。小龍は攘夷にせ開港にせよ、其辺は説を加えず。然に何れにも一定せざる可からず。愚存は攘夷はとても行わるべからず。仮令開港となりても、攘夷の備なかるべからず。此迄我邦に用ゆる所の軍備益なかるべけれども、未だ新法も開ざれば、何や歟や取用いざるべからず。其中に海上の一事に至ては何とも手の出べき事なし。已に諸藩に用い来りし勢騎船などは、児童の戯にも足らぬもの也。先ず其一を云うには弓銃手を乗せ浦戸洋へ乗出せば、船は翻転し弓銃手とも目標定めがたく、其上に十に七、八は皆船酔して矢玉を試ムむまでに及ばず。たまたま船に堪ゆるものありとも一術を施に及ばず。大概沿海諸藩皆此類なるべし。箇様のことにて外国の航海に熟したる大鑑を迎えしとき、何を以て鎖国の手段ヲをなすべきや。其危きは論までもなきこと也。今後は我拝に敵たわずとも、外船は時に来ること必然也。内には開鎖の論定まらず、外船は続々来るべし。内外の繁忙多端にして国は次第に疲弊し、人心は紛乱し、如何とも諠方なく遂に外人の為、呂宋の如く牛皮に包まるることにも至らんや。此等のこと藩府などへ喋々云立たりとも聞入べきことにもなく、実に危急の秋なるべし。何為ぞ黙視し堪ゆべけんや。故に私に一の商業を興し、利不利は格別、精々金融を自在ならしめ如何ともして一艘の外船を買求め、同志の者を募り、之に附乗せしめ、東西往来の旅客官私の荷物等を運搬し、以て通便を要するを商用として、船中の人費を賄い海上に練習すれば、航海の一端も心得べき小口も立べきや。此等盗を捕、縄を造るの類なれども、今日より初めざれば、後れ後れしして前談を助くるの道も随て晩れとなるべし。此のみ吾所念の所なり」と語れば、坂本手を拍して喜べり。且云へるには「僕は若年より撃剣を好みしが、是も所謂一人の敵にして、何にか大業をなさざれば、とても志を伸ること難しとす。今や其時なり、君の一言、善く吾意に同ぜり。君の志何ぞ成らさらんや。必ず互いに尽力すべし」とて堅く盟契して別れけるが、やがて又来り云えるには「船且器械は金策すれば得べけれども、其用に適すべき同志無くんば仕方なし。吾甚だ此に苦しめり。何か工夫のあるべきや」と云えるより、小龍云えるには「従来俸禄に飽たる人は志なし。下等人民秀才の人にして、志あれども業に就べき資力なく、手を拱し慨歎せる者少からず。それ等を用いなば多少の人員もなきにあらざるべし」と云えば、坂本も承諾し「如何にも同意せり。其人を造ることは君之を任じ玉え、吾は是より船を得を専らにして、傍ら其人も同く謀るべし。君には人を得を専任として、傍ら船を得て謀り玉え。最早如此約せし上は、対面は数度に及ぶまじ。君は内に居て人を造り、僕は外に在て船を得べし」とて相別れぬ。

 「藤陰略話」は明治二〇年代における小龍の回顧記のため、これを無批判に受け入れるわけには行かないが小龍の画房「墨雲洞」から、多くの人士が社中・海援隊に加わっていることを考えると、小龍の説は別にしても交流そのものは信じて良いだろう。なお、この門から出た社中・海援隊士に長岡謙吉・近藤長次郎・新宮馬之助・岡崎参三郎(波多彦太郎)らがいる。

(平成某年某月某日識)

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