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砲術稽古〜高島流と荻野流〜


 安政二年一一月の六日と七日、龍馬は仁井田浜で行われた徳弘考蔵の砲術稽古に参加する。下がその時の記録だ。

●砲術稽古の記録

十二斤軽砲(八丁) 一、打 二百七十目    坂本良馬   矢 三度   通 壱寸三歩      七丁着

 二百七十目は二百七十目玉のこと、つまり撃った弾の種類。三度は斜角のこと、つまり砲身を向けた角度。壱寸三歩は火縄の長さ、つまり導火線の長さ。七丁は着弾距離を表す。

 龍馬はすなわち十二斤軽砲に一寸三歩の導火線をもちい、二百七十目玉を三度(ほぼ水平)の角度で射撃。七町の距離に着弾させたことになる。(八丁)が目標距離だとすると龍馬の成績も中々のものだったようだ。なお、のちに考蔵から砲術の奥義を授かる兄坂本権平はこの時(十五丁)の目標に対し初着十四丁、少シ後切といった成績を残している。

 龍馬が考蔵の門を初めて叩いた時期はよく解らない。安政六年の九月二〇日に入門したことが史料から確認することは出来るのだが、すでに安政二年の時点で稽古へ参加しているのを考えると、同六年の入門は再入門ということになるのだろう。一部が焼け焦げた門人帳によると安政三年に入門した「千頭作太郎」なる人物の次に龍馬の名が確認できるため、安政三年の入門とも推考されるが件の稽古が行われたのは同二年のことである。仮入門の期間にでも稽古へ参加させてもらったのだろうか。なお、龍馬はのちに奥義を授かる坂本権平・猪野半平らと共に稽古へ参加していることから奥義に類する実力を、備えていたものとも推測されている。

 以前、佐久間象山の塾に龍馬が入門していたことは別稿で紹介したが、象山の塾では砲術のほか漢学や蘭学の教授も行っていたという。龍馬がそこで漢学・蘭学を修行したかどうかまで解らないが考蔵の門でオランダ語を習っていたと言う話はある。考蔵の末娘が語ったところによると、それは以下のようなものだ。

●徳弘考蔵末女の談話

龍馬が兄数之助にオランダ語を習っているのを、障子をへだてた次の間で聞いていて、龍馬より先に覚えて、龍馬を驚かした
龍馬が寺田屋で放ったピストルの作法は徳弘伝授の打法だった

「ピストルの作法は徳弘伝授」のものかどうか確認の仕様もないが、他にも龍馬が銃で射撃の練習していたという目撃談がある。

 坂本家から歩いて約十分のところに西内清蔵という、自らを「砲狂」と称する高島流の砲術家がいた(ちなみに徳弘考蔵は芸家制度によると「荻野流」だが、実質的には「高島流」の砲術へ流を改めている)。

 清蔵の弟子で後に養子となった島田義顕の話によれば龍馬は上半身裸で鉄砲を持ち、的に向かっていたが、その背中には一面に怪毛が広がっていたという。

 龍馬が多くの師について砲術修行を行っていたという証左になる話ではないだろうか。

(平成某年某月某日識)

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