天保六年〜安政五年
時計拾得事件
英雄や偉人が生を得るとき、後世になって瑞夢譚が語られることが多々ある。天下人・豊臣秀吉の例を牽くまでも無く、多くの人は似たような話を何度か耳にした記憶があろう。龍馬の盟友・中岡慎太郎の場合、母が男子の生誕を天狗森に祈願したことから夢に天狗があらわれ、慎太郎の誕生をみたという。そこで龍馬の伝記史料から誕生前夜にまつわる瑞夢譚を以下にまとめてみた。
●坂崎紫瀾『汗血千里駒』(明治十六年)
一説には、龍馬の名は其生まるる前夜に当りて、母が庭なる梅の梢より蛟龍昇天する夢みたる吉瑞に取れるものなり。
●弘松宣枝『阪本龍馬』(明治二九年)
一夕、其父黄金の駒天より下れるを夢み、母は黄金の龍地より上れるを夢み、寤めて而して分晩す。故に龍馬と名付けし也と。
●瑞山会『維新土佐勤王史』(大正元年)
前夜、母幸子に蛟龍赫々神火を吐きて、炎気胎に透ると感ずるの夢象あり。驚き寤めて分娩したるを以て、父八平、之を龍馬と名づく。
●千頭清臣『坂本龍馬』(大正三年)
龍馬は生まれて顔に黒子點々、背に一塊の怪毛あり。時人為めに種々の浮説を作る。左は其の主たるものなり。
(一)母幸子、雲龍奔馬の胎内に入るを夢み、覚めて後ち龍馬を生む。
(二)母幸子、常に猫を愛し、懐胎中も之を抱きしが、獣気自ら胎児に感染して龍馬に此の怪毛を生ぜしむ。
(三)母の奇夢、子の怪毛父は之を易者に相せしめけるに、易者曰く、蛟龍昇天して火焔母胎に入る。奇夢なり。大器にして晩成し、必ず家名を揚げんと。父乃ち、此の兒に龍馬の名を興へたり。
●坂本中岡銅像建設会『雋傑坂本龍馬』(大正十五年)
父八平、黄金の駒、天より駈け下りて懐に入ると夢見、母幸子、蛟龍雲に乗じ赫々たる神火を吐き、炎気胎内に入ると夢見、きにぎぬの言葉に、夫婦互ひに此の奇瑞を物語って間もなく旭日東天に懸かる藜明の頃おい、龍馬は産声高く誕生したり。龍馬の名を由って来る所似は、此の奇瑞によるものである。
伝記史料によると、この瑞夢譚がそのまま「龍馬」の命名につながったように書かれているが、土佐では我が子の無病息災を願って動物名をつける習慣がみられ、龍馬の周辺でも武市半平太の幼名が鹿衛、吉村虎太郎の虎、望月亀弥太の亀など探し出したらキリが無い。瑞夢譚はともかく龍馬の命名も同じ理由によるものであろうことは想像にかたくない。
龍馬は諱をはじめ「直陰」といい。妻・お龍の伝えによれば伏見にいた頃(慶応二年春頃か)日陰者みたいでいけないから「直柔」に改めたという。手紙での使用例には慶応三年頃(異説あり)から確認することができる。
ちなみに「直」の文字は坂本家の諱にみられる特徴で、兄の権平は直方、父の八平は直足といった。
(平成某年某月某日識)