安政五年〜文久二年
矢野道場
芝巻で旅費を借りうけた龍馬はかねての予定通り、讃岐国丸亀藩へと歩を進めた。「福岡家御用日記」によるば去る一〇月九日、同一二日に家老福岡家へ以下のような届け出がなされている。
●『福岡家御用日記』(『土佐維新史料』版)
一〇月九日
一、御預郷士坂本権平弟龍馬儀、剣術詮議之筋有之ニ付、讃州丸亀御中矢野市之丞[市之進]方江罷越申度、依之廿九日之日数御暇願出、取次方江差出候事、郷士牒ニ詳也。
一〇月一二日
一、去九日記通、御預郷士坂本権平弟龍馬儀、剣術詮議之筋有之、讃州丸亀江差遣申度願、昨一一日相済候旨、取次方より申来ル其段権平江申達之。
なおこの詮議
との字句には「評議して物事を明らかにすること」といった意味しかなく、龍馬が「何をするために讃岐丸亀まで行こうとしたのか、不明というほかない」とする意見も耳にするが、江戸時代に諸国修行を面談
と称していた例もあるそうなので、件の詮議
もこれに類する隠語のようなものでは無いかと考えられなくもない。
龍馬は丸亀で同藩の剣術指南、直清流 矢野市之進の道場へ身を寄せた。前年、武市半平太らが西国へ時勢探索に向かったおりにも一行は同道場へ足を留め、四月の江戸行きでも同地を通過していることから、龍馬の行動にしても武市の指事あるいは紹介によるものだったのだろう。歴史家 谷是氏の伝えるところに寄れば矢野家の墓地がある専念寺住職の話として、矢野家の巻き物のなかには何か試合日記のようなものがあって、それには坂本龍馬の名前があったのを見た記憶があるとのことだ(現在巻物は行方不明)。
矢野道場で教授する剣術「直清流」は、南北朝期の武将佐々木道誉に端を発するとされる流派で、道統は矢野市之進から原吉雄へと引き継がれ、昭和の剣道範士渡辺栄へ継がれている。この矢野道場から出た有名な剣客として、のちに山岡鉄太郎から「一刀正伝無刀流」の衣鉢を継いだ香川善治郎がいる。
さて丸亀で龍馬は何をしていたのか、史料や口伝もなく明確なことは解らないものの矢野道場のすぐ近所には、丸亀を代表する勤王の志士・土肥大作や同七助兄弟が居ることや武市と龍馬の行動から推測して、丸亀における勤王運動の奮起などの目的が考えられている。後年、龍馬の死後、海援隊の長岡謙吉は丸亀藩に朝廷への恭順を取らせるため、土肥大作と連絡をとり、砲火を交えることなく丸亀藩を恭順へ導くことができた。この謙吉の活動下地に、かつての武市や龍馬らの尽力があったのかどうか、興味の引かれる問題ではある。
(平成某年某月某日識)