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草莽崛起論〜久坂玄瑞との会見〜


 文久二年一月、龍馬は昨年一〇月の土佐出立以来、約三ヶ月のあいだ「剣術修行」を名とし各地に足跡らしきものを残しながら、長州藩は萩を訪れた。この際における龍馬の動向を記した久坂玄瑞の日記『江月斎日乗』から龍馬に関連する部分を抄出しておこう。

●『江月斎日乗

一四日 翳、土州坂本龍馬、携武市[半平太]書簡来訪。托[松浦]松洞、夜前街の逆旅に宿せしむ。
一五日 晴、龍馬来話、午後文武修行館へ遣す。是日、佐世[八十郎]・中谷[正亮]・寺島[忠三郎]・岡部[富太郎]・松洞など来る。藁束を斬る。是日詩経休、坂本生などの周旋も有之を以てなり。寺島、夜与、薩人訪、夜半帰家。薩人は田上藤七と申す男にて有之候。
一七日 晴、訪土人。薩人是日、山根・吉松・大楽[源太郎]などの所へ参る。
二一日 晴、土人の寓する修行館を訪。中谷と同行此日、訪薩人。
二三日 晴、是日を以土州人去、午後訪薩人。

 久坂の目に龍馬は如何ほどの人物として映ったか、断定はし難いものの「土州人」という日記への表記や「志士」としてよりも「剣客」として遇している様を観てみれと、その評価のほども何となく知れる気がする。

 なお「防長回天史」では龍馬の萩訪問を同年二月一五日の事とし、長州藩士津田政治・三宮新右衛門をともなって来訪したとしているが、これは何らかの過誤あるいは誤記誤植であろう。

 『江月斎日乗』によると龍馬は武市半平太から托された書簡を久坂へと渡し一五日の午後、長州藩士ら数名と文武修行館にて「藁束斬り」を披露するなどしているが、ちょうど同日の事と思われるよく知られた逸話がある。

●磊落不羈

剣道修行を名とし、長州萩の城下へと立越しゆえ、長藩の人々は之を其藩にて設けし大道場へ迎え導きて試合を望みしかば、龍馬は強いて否みもやらず二、三本の勝負をしたるに元来龍馬の意、此もあらざる事ゆえ、前髪の少年にしたたか打たれしが、藩士等は気の毒に思いて「先生、日頃の手練にも似合しからぬは全くの病気の故なるべし」と問いけるにぞ龍馬は打笑いながら「否」と「よ病気の為にはあらず。全く某が負たるなり」と事もなげに答えければ、藩士は皆、其無我の度量ある事を感じあえり。

 日記にも記されていない以上、真実か否か確かめる術もないのだが不羈小節に拘らない、何とも龍馬らしい雰囲気の出た逸話ではある。

 上記のようにほぼ一〇日のあいだ萩に滞在した龍馬は、折よく来訪した薩摩人・田中藤蔵や長藩有志らと談合をかさね、薩長両藩や尊王攘夷運動に関する情勢および情報を収集することが出来たと思われる。龍馬が萩を離れるにあたり久坂は武市宛に書簡を認め、これを龍馬へと託している。まず以下に紹介しておこう。

●文久二年一月二一日付久坂玄瑞より武市半平太宛書簡

其後は如何被為在候や、此内は山本[喜三之進]・大石[団蔵]君御来訪下せられ、何ら風景も之無く、御気の毒千万存じ奉り候。最早、御帰国ならんと御察し仕り候。此度、坂本君御出浮在らせられ腹蔵無く御談合仕り候頃、委曲御聞取り願い奉り候。竟に諸候恃むに足らず、公卿恃むに足らず、草莽志士糾合義挙の外には迚も策之無き事と私共同志中申し合い居り候事に御座候。失敬乍ら、尊藩も弊藩も滅亡しても大義なれば苦しからず。両藩共存し候とも、恐れ多くも皇統綿々、万乗の君の御叡慮相貫き申さず而は神州に衣食する甲斐は之無きかと、友人共申し居り候事に御座候。就而は坂本君に御申談仕り候事ども、篤く御熟考下さる可く候。尤も沈密を尊ぶは申す迄も之無く候。樺山[三円]よりも此内書状来る、彼藩も大に振い申し候よし。友人を一両日内遣す積りに御座候。様子次第、尊藩へも申す可くと存じ申し候。何も坂本様より御承知ならんと草々乱筆推読、是祈り敬白。
  正月念一
時気御自保申すも疎に御座候已上

 所謂、吉田松陰以来の「草莽崛起論」をうたった極めて有名な書簡である。

 文面は「竟に諸候恃むに足らず、公卿恃むに足らず、草莽志士糾合義挙の他にはとても策これ無き事」と言い、また「失敬乍ら、尊藩も弊藩も滅亡しても大義なれば苦しからず」と語る藩を顧みない烈々とした内容だが、この言辞が後日、龍馬に如何ほどの影響を与えたのか想像する他ないのだが、脱藩に向けて「ある種の示唆」になったと考えてみるのも決してお門違いでは無いだろう。

 しかして龍馬はこの後、九州へ渡ったとも伝えられるが『維新土佐勤王史』や千頭清臣『坂本龍馬』などの伝記では上方へと上った旨が記述されている。

●『維新土佐勤王史

文久壬戌[二年]二月八日の事なりしが、坂本龍馬は飄然長州より中国路を経て大坂に出で、即夜住吉陣営に来りしかども、深更ゆえ営門已に閉じたれば、坂本は止むなく住吉神社の通夜堂に入りて疲れしままに甘睡せり。参詣男女の笑う声に目を覚せば、さす日影は牛にも近かりき、先ず使を走らし、営内の同志に告げ知らすや檜垣清治来りたれば、相携えて阿倍野の古戦場を散歩し、南朝の柱石北畠顕家の墓を弔い、日暮に三文字屋に投宿す。翌日より望月清平・安岡覚之助等、交も来りて時事を快談せしが[中略]坂本は留まること四、五日にして事情視察の為に京都へ向けて立ち去りし

(平成某年某月某日識)

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