安政五年〜文久二年
桜田門外の変
万延元年三月三日、江戸桜田門外において時の大老井伊直弼が水戸脱藩の浪士らに斬殺された。この「桜田門外の変」が土佐へ伝わったのは大坂帰りの廻船からだという。はじめは、この報を信じる者もなかったが江戸藩邸からの早打ちにより事実だと判明した。
これを聞いた人々は事件の是非をめぐって議論を交わす。藩で横目職をつとめる者は、浪士らの心意気は讃えられるべきだが国法を犯してしまった事実は如何なものかとの意見を出す、間崎哲馬はこれを聞くと笑いながら「これはいわゆる権道というものぞ。赤穂義士の復讐も国法上から論ずれば大罪人ではないか」と周囲に語ったという。
しばらくして件の斬奸状の写しが土佐に伝わり、龍馬も人々の集まる池内蔵太の家へやって来た。
●『維新土佐勤王史』
而して坂本龍馬後れ至るや、其の水戸人と交りあるを以て、事の顛末を質すに、龍馬略ぼ知れる所を語り、惣ち大言して曰く「諸君何ぞ徒らに憤慨するや、是れ臣下の分を尽せるのみ。我輩他日事に当る亦此の如きを期せん」と。池[内蔵太]、河野[万寿弥]等始て龍馬の大志を抱くを知れりと云う。
龍馬が事実、このように語ったものかわからないが尊攘の志を持つ有志らは、だいたい似たような反応をしめしている。
朝廷は桜田門外の変におよんだ浪士らを「如此輩は死を視ること帰するか如く実に勇豪の士[中略]誠に愛むへきの士也」と激賞しているし、大島に配流中の西郷吉之助は「打喜び、直ちに刀を抜いて跣足まま庭に飛び下り、エーエーと声勇しく庭前の大きな松の幹を幾度か斬りつけた」という。さらに清河八郎は祖父宛の手紙で「元禄の義士は四十七人して僅かの旗本を打取り古今の珍事と存じ候ところ、今度は只十七人にて、天下の歴々たる大執権を一朝に打取り候とは、日本開闢の大珍事に御座候」と感心する。
しかし、この挙に参加する浪士らをだした水戸藩の徳川斉昭は「たとひ宜しからずとも、将軍家の御信任厚き宰相なり、それを殺害するとは不届至極、言語道断の曲事なり」と激怒し、同藩の会沢正志斎も「国家に対し白刃を揮候者共にて、狂悖之所為」と断じている。
ここで一方の意見の是とし、他方を非を論じるつもりは毛頭ないが世間一般の有志たちは、この挙を「是」とした。土佐藩老公山内容堂が政敵井伊直弼の死を詠んだ漢詩を下に紹介しておこう。佐幕的な傾向のある容堂ですら喝采をあげているさまが見て取れよう。
(平成某年某月某日識)