安政五年〜文久二年
国脱け
龍馬が脱藩の意志を固めたのは何時のことだろう。
『勤王者調』によれば、文久元年に龍馬は土佐勤王党の森助太郎らに対し、所謂「処士横議」的な策をすすめ、なぜ諸国有志らと交流し大事をなそうとしないのかと語ったつたえられる。
文久元年となると、龍馬はまだ久坂玄瑞から「草莽崛起論」を聞かされてもいない時期にあたり、時期的にみて些か疑問がわかなくもないが、一つの説話としてありえない話でもない。
そもそも土佐勤王党志士たちの場合、脱藩を決行するにさいして気心の知れた同志に脱藩をうちあけ、同行や後事を託したりする例が多く見られる。この点から彼らの脱藩は一概に「朋友の信」を裏切る行為とはいえず、道徳的な議論もいくぶん軽いものとなるだろう。つまり重大な背徳行為にはあたりにくい。
これを龍馬に関して観てみると、脱藩を打ち明けたとみられる人物に武市半平太や平井収二郎、後事を託されたと伝わる人物には藤田栄馬などがいる。
藤田栄馬は日根野弁治道場における龍馬の友人で、自宅もごく近所とちかく、父親同士(坂本八平と藤田利三右衛門)も友人であったことから、龍馬と栄馬は親しく交流をかさねたという。
栄馬ははじめ龍馬から脱藩への同行をすすめられたが、父にそのことが漏れ果たすことを得ず、龍馬は「あとのことは宜しく頼む」と後事を栄馬に託して脱藩をとげた伝わっている。
とりあえず、上記のような事情を総合して考えれば、龍馬は早期から処士横議の必要性を認めつつ、行動していたものと思われる。
当時、土佐藩の国策(端的に言えば新おこぜ組の国策)は、時勢を静観しながらも西洋的な文物を積極的に取りいれる開明的な富国強兵策を押しすすめており、佐幕的な気質さえ除けば佐久間象山や河田小龍、徳弘考蔵の門で開明的思想の根をもつ龍馬にとって、決して相容れない国策とはいえない。
しかし、龍馬は藩にとどまるという選択肢をすて、敢えて脱藩の道をえらび、広く天下に志をのばそうと奔走を開始する。これは龍馬の尊王思想と行動思想とが結びついた発露なのかも知れない。
かくして龍馬は、武市に情勢を報知すべく帰国した沢村惣之丞とともに河野万寿弥に見送られながら三月二四日、ついに脱藩を決行した。
●『維新土佐勤王史』
雄心勃々たる坂本は、その無事に苦しむの余り、もはや瑞山の節度を守るの意なく、密かに沢村と共に脱藩せんと、その準備に着手せり。然るに実兄の権平は祖産を守りて事を好まず、龍馬近日の挙動に戒心を抱くにより、路費を請うとても許さるべきにあらず。辛くも親戚の広光某につきて十余金を借り得たれば、実兄を欺きて近村に旅行すと告げ、まさに明暁を以て発せんとす。姉の乙女は早くもその機を察し、龍馬が日頃望める実兄秘蔵の肥前忠広の一刀を取り出し、御身に贐せんとて与えければ、龍馬は之を推し戴き首途よしと勇み立ち、この月二十四の夜、沢村と共に高知城下を発す。河野万寿弥はこれを朝倉村まで見送りて別れたり。
(平成某年某月某日識/平成十八年二月二六日訂)