安政五年〜文久二年
脱藩の意味
文久二年三月六日、幕末の土佐藩国士として初めて吉村虎太郎が藩を脱した。ほかに長岡謙吉が安政年間に脱国を遂げた例はあるが、純粋に志士としての藩を抜けたのは吉村虎太郎を第一号とする。
吉村は武市半平太が模索する挙藩勤王の道より、むしろ有志らによる上洛策を主張したが入れられず、ついに宮地宜蔵や曽和伝左衛門ら同志に同行脱国をすすめた。武市は吉村脱国の意志を曽和より聞かされ「吉村は功名に急して、勢い制すべくもない。彼一人去って平野(二郎)らの挙に加わるも、今の場合いたしかたない」ともらし、不請ながらも了承した。
このさい吉村が幾人の同志に対して脱国をすすめたのか、正確には解らない。ただ、のこる吉村の書簡や史料から類推して、恐らく龍馬に対しても何かしらの掛け合いくらいはあっただろうと予想される。時期的にみても吉村の土佐帰国が二月二七日、龍馬の帰国が二月二九日と時間的にも無理はない。
さて、ここで「脱藩」という行為ついて少々考えてみたい。そもそも脱藩とは簡単にいってしまえば「藩籍を脱すること」である。本来「主君と家臣の主従関係」について問われる行為であり、不法出関はその附属的な犯罪行為でしかない。
江戸時代、犯罪行為の軽重については幕府や諸藩によってその多寡は異なり、幕府が不法出関に対し磔の極刑でのぞんだのに対し、諸藩ではいくぶん刑がかるくなる例も珍しくない。
さきにもあげた長岡謙吉の場合、「布師田川限り追放」と比較的その刑罰はかるく、これは彼の目的が「主従関係の一方的放棄」にあるのではなく、「勉学のための脱国」と藩庁に解されたゆえだろう。
幕末期に土佐勤王党系の志士をはじめとして多くの脱国者を出した土佐藩では、結果的に当の本人が厳罰に処されたという例はまずなく、たとえ罰せられたとしても追込や禁足(岡甫助や坂本清次郎らが受刑)といった刑がほとんどで、結局極刑に処されたものは見当たらない。
なお比較的きびしい刑としては、池内蔵太や田中顕助らの縁者に対し、連座制が適応された例もあるが、これは藩命の途中放棄や譴責中の脱藩など、他例とはやや事情を異にする。
脱藩は、主従関係の放棄と縁者への刑罰(連座制の適用)から「君臣の義」と「父子の親」、儒教の五倫(親・義・別・序・信)に外れた道徳的許されざる行為にあたり、さらに自己の独断による脱藩では盟を結んだ同志らに対して「朋友の信」を裏切る行為にもあたりかねない。
この道徳的にも法制的にも許されない脱藩という行為に対し、さほどの厳罰が下らない理由には、志士たちが国や天皇を思い行動する有為の存在、と世情一般に認識されていたからに他ならない。
それは後年、龍馬が脱藩の罪を二度も許され、ほとんど何ごともなく活動を続けたことや後藤象二郎に坂本清次郎の脱藩について「兄さん(坂本権平)の家に傷はつきはすまいか」とたずねたところ「それは清次郎が天下の為に御国の事について一家のことを忘れしとなれば兄さんの家に傷はつくまい」との返答を得ていることからも伺える。
ここら辺の事情は、君臣の義を天皇におく「一君万民」の思想や儒教・国学における「大義名分論」とも関係がふかい。
と、いささか話がそれ過ぎた。話をもとに戻そう。
その後、吉村虎太郎から同行を誘われた曽和伝左衛門は、武市半平太の意向もあって藩内に留まることとなる一方、ほぼ時を同じくして宮地宜蔵・沢村惣之丞の二人が別途国境をぬけ、のち相前後して吉村に合流する。
吉村と宮地は、まず長州は萩へと向かい、その途中出会った越後の浪士本間精一郎に土佐遊説の紹介状をしたため、さらに西下。長州の明木では同藩士土屋矢之助に邂逅後、遅ればせながら沢村も吉村・宮地の二人に合流し、一一日夜四ツ時に萩は久坂玄瑞のもとへ到達した。
●『江月斎日乗』
[文久二年三月]一一日 晴、早朝、周布麻田を訪う。竹田庄兵衛、昨夜馬関より帰り候よしにて薩の一条大いに愉快の由承り候事。時に前田[孫右衛門]・土屋[矢之助]・佐久間[左兵衛]・松島[剛蔵]・福原興兵衛など来る。竹内は腹をすえておる様に相見え頼もしく存じ候。麻田、昨日より逼塞御免仰せ付けられ候事。午後、弥二[品川弥二郎]・[松浦]松洞・楢崎[弥八郎]一同、鶴台上り談ず。夜四時、土州吉村虎太郎ついに亡命して来る、二人同行、のちより十余人も来るべしとの事、愉快千万、彼輩の決心には感じ入り候。九時去て広島屋に宿す。松洞、来りて周旋致しくれ候事。
この後、吉村たちはそれぞれの役割をさだめ、宮地は北九州へ情勢探索に向かい、沢村は現今の情勢を武市に報知すべく一旦土佐へ帰国の途につく。やがて龍馬もこの沢村に同行し、ついには藩を脱することとなる。
(平成某年某月某日識/平成一八年二月二六日訂)