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柴巻の里〜田中良助〜


 龍馬の「飛騰」が決まったその三日後、坂本家の領地がある柴巻は田中良助邸に龍馬は足をとどめて居た。時勢探索における旅費を借用するためである。下はその借用書だ。

●文久元年一〇月一四日田中良助宛

一、金子弐両也
右者下拙儀、讃州地方に罷り越し候に付、金子入用に付、借用候事実正に候。返弁之儀、当暮限壱割五歩之利息を加え、元利共必然皆済致す可く、之仍借用始末件の如く候。
  文久辛酉歳一〇月一四日
              坂本龍馬(印)
    良助殿

 田中良助は柴巻にある坂本家の地組頭で、龍馬も子供のころから田中家を訪ねることが多かったのだという。龍馬は田中家に泊まり込んだり、良助と一緒にウサギ狩りに出かけり、近くにある「八畳岩」に上っては遥か遠方を眺め、良助や近所の若者たちと酒を酌み交わすなど、たいへん親しい交流をかさねていたようだ。

 借用書によれば「担保」も「保証人」もいない龍馬に対し「壱割五歩」の利息で二両を貸してくれている。この利息は当時のごく一般的な利率なそうだが、担保も保証人も必要としていない点が面白い。坂本家の息子であるうえに気心の知れた両者だけに良助としても敢えて気にとどめなかったものだろう。この借用書が田中家に保存され、現在に伝わっていることを思えば結局、龍馬は二両を返済する暇もなく帰国後すぐ脱藩してしまったと考えられるが、その返済を良助が坂本家に求めていないあたり、この二両は良助にとって龍馬への餞別だったのかも知れない。

 田中良助は文化九年(1812年)に田中曽左衛門の孫(両親の名は不祥)として生まれ、先にも述べたとおり柴巻で坂本家の領地組頭をつとめた。田中家はなかなかの豪農であったらしく、何挺かの鉄砲や具足を所持し高利貸しなども行っている。また良助は砲術に長けていたようで「武衛流砲術」の初伝や免許状が現存し、いくつかの兵法書も保存されている。明治十年(1877年)、五十八歳にて死去した。

 また龍馬が柴巻を訪れたさいの逸話が現在にも伝わっており、それらを以下に紹介したいところだが筆者には文才が無く、上手にまとめる自信も無いので、ここでは歴史家 広谷喜十郎氏の文を引用させて頂くこととする。龍馬の人柄が偲ばれる逸話ばかりではなかろうか。

●『田中良助邸調査報告書

坂本龍馬が、田中良助邸へよく遊びに来たという伝承が数多く語り継がれている。例えば、龍馬が滞在した折には、夏ともなれば屋敷の西側の庭にある小さな池にたらいを浮かべ、近所の子供たちをそこへ入れて水遊びに興じたという話があり、或る時はには龍馬が田中家に泊まった折、北辰一刀流の腕前を披露するために、庭に飛び交っている蛍を刀で斬ったところ、蛍がばらばらになって飛び散り、それが池の水面に落ちて、そこで北斗七星の形となって浮かんだという話も残されている。これはあまりにも出来すぎた話になっているが、このような誇張された逸話が言い伝えとして残っているところに、龍馬らしい話として興味を覚えるものである。
それに、龍馬が田中家を訪問した時には、近所の若者たちを集めて剣術の稽古をつけていたといわれ、後には数人が一度かかっても赤子のごとく、簡単にあしらわれるようになったともいう。これは江戸へ二回も剣術修行に行った後のことであるというから、それだけ龍馬の剣術の腕前が上がったことを意味する。また、田中家で前の晩にいくら酒を飲んでいても、早朝に目をさまして、主屋の前にある庭で早朝の静けさの中で腹の底にまで響き、まだ眠っていた田中家の家人の多くが、この声で目をさましたと言い伝えられている。
龍馬がとりわけ碁や将棋が好きだったので、これまた近所の若者たち縁側から大きな声で遊びに来いと呼びかけては集めて、縁側でよく碁や将棋をしていたともいわれている。[中略]龍馬と良助さんが酒を飲みながら、碁遊びに夢中になっていた折、庭に干してあった籾が夕立ちの雨にいくら濡れていても、そのうち女房が気がついてしまい込むであろうと平気だったちいうから、良助もまた豪放な人物だったと思われる。

(平成某年某月某日識)

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