安政五年〜文久二年
汗血千里駒
前項の「永福寺事件」において説明したとおり、多くの下士たちは事件が起こるや池田寅之進の宅へと駆けつけ、上士らに対し対決の気勢をあげた。
このさい龍馬が事件にどのように関わったのか、それを伝える正確な史料は存在しない。しかし龍馬の伝記として最も古い『汗血千里駒』は事態を収集する劇的な役回りを龍馬自身へ与えている。
●『汗血千里駒』
此時、池田の宅へ馳つけし有志の一人に坂本龍馬と云う人あり。始め池田兄弟と無二の友垣なりたりしも、央頃互いに論しの適ねば其交際を断ちたる折から該騒動をを聞きしより、他に見るべき時ならじと諸有志と供に池田方に来たり池田が割腹論に大に賛成し、寔に武士は斯こそありたけれと、更に之を禁ず、頓て寅之進が割腹の血汐へ己が刀の下緒(白糸なりし)を浸し、韓血となりしを手に把りて「各々見られよ、之れぞ世にも猛男が魂魄残りし最期の記念。池田は我国軽格の元気を振興させんが為め身を犠牲に供しさり、努々姑息に流るるなかれ、蓋せよ蓋せ国の為」と押載きて元の如く刀に結びつけ、家内の者に会釈をなして悠然と立去し。其挙動には一同感じて竭まさりし。是ぞ汗血千里駒が驥足を舒る開結なり。
無論、あまりにも「芝居がかかった」上記の記述をそのまま信じるわけにはいかない山田一郎氏の『海援隊遺文』には以下のような口伝が紹介されている。
●池知翁の口伝(『海援隊遺文』)
「山田側の使者が池田家へ再三行って身柄の引き渡しを要求した。虎之進と広衛の弟次郎八に尋常に勝負をさせたいという考えだったのです。文武館での指南役で麻田道場の師範役も務めたほどの男が、おめおめと殺されるはずがない。恐らく背後からの闇討に違いない。次郎八も麻田勘七道場の高弟で巧者な剣を使った男でした。会津戦争では数人を倒したといわれています」
池知翁はそれからこういうふうに話を続けた。
「池田家や下士の人たちが虎之進をみすみす渡すはずがありません。武士として当然のことですよ。最後に山田から使いに行った者、何という名だったかかなりの武士だったと聞いていますが、応対に出た相手側の若い武士が立派な態度でこう言った。『虎之進が山田を背後から斬ったのは武士の本分にもとる。しかし、虎之進も弟を討たれておるから仇討ちの名分も立ちました。よって、ただ今、切腹した』そこで使者は感服して帰って来た。後で聞くとその武士は坂本龍馬であった。そういう話が私どもには伝わっています」
無論、これを証明する史料はない。しかし、池知翁はそれを信じているようで、「騒動の鎮静に龍馬が大きな役割を果たしたそうです」とも話していた。
●伊野部幸子氏の口伝(『海援隊遺文』)
別役伯母(注。喜久馬の実姉、郷士別役俊蔵妻)、宇賀伯母(喜久馬の長兄、新之助の妻)から聞きました。其の時は士は二派(軽士と士格)に分かれて居たそうで、派違いの人(軽格と士格を)切りましたから、向うから大変の掛合で、坂本さん(龍馬)も大変御心配になり、何卒して切腹させんように色々御世話になり、玄関へは向から絶えず人が来て「早く切らせ、切らせ」と迫りますから、外(の)同志の人と裏の倉の脇の芝の上で御相談被成た由。つまり、もう仕方が無いと一言坂本さん言われ、叔父さんに言い聞かせ被成た時の坂本さん外御一同の心持ち、今も見る様なと申しました。
伊野部幸子氏は「坂本さん初め同志の人々からほめられたそうです。叔父[喜久馬]も立派な人で御座いました由。皆から惜しまれ坂本さんも惜しいことをしたと涙を流されたそうです」とも伝え、龍馬が事件の収拾に活動したらしい形跡も伺える。あくまで口伝レベルの話でしかないが、あるいは『汗血千里駒』の著者坂崎紫瀾も似たような口伝を耳にする機会があったのかも解らない。
(平成某年某月某日識)