安政五年〜文久二年
坂龍飛騰
土佐勤王党が結成されて間もない文久元年一〇月二三日(日付には異説があるが)、武市半平太は藩の監察府に対し薩長両藩の情勢を伝え、土佐藩に奮起を促した。しかし、上申を聞いた「新おこぜ組」の福岡藤次・大崎健蔵らはこれを「書生論」としてかえりみることもなく結局、武市の説得は徒労に終わるのだが下は、その福岡が認めた概略である。
●『壬戌事』
半平太申し出の大意は将軍家、王威を蔑如し、かえって夷人を親睦、かつ姦計をもって、和宮様を奉迎などの儀これ有るより薩長二藩、力を戮せ義を挙げ、和宮様ご下向の期に先立ちて事を発し候色相顕れ、別而長藩にては誰某々々など必死の挙動ときどき相見え、かつ薩長より御国[土佐藩]を同志と見付居候ようにこれあり、第一[山内]容堂さま御起居および小南五郎右衛門の成り行きなどを相尋ねられ候段申し出候につき、右など動もすれば書生の醸し成し候説にて容易に信用致し難く、縦令その実ありとも御国に於いては尚更これらに動揺いたし万一またまた、御隠居さま御首尾に相関し候よう相成り候ては不安次第につき、その方なども容易に発言いたし人心を扇動いたし候儀これなきよう相心得、尤官府へ申し出候儀は如何様なりとも苦しからず、かつまた他国の風聞を新たに承り候はば、時々申し出るべくと申し聞かす。
福岡ら藩政に関わりのある者にしてみれば、武市が主張する「挙藩勤王」の説などに組みすることは先の将軍継嗣問題以来、幕府から睨まれている土佐藩の立場をより一層危ういものとする暴論にうつったとしても無理はない。一方、武市や土佐勤王党およびこれに同調する上士勤王派は当面の時勢を「立つか否か」(行動か座視か)の切迫した形勢と観、両者の時勢観は根元の部分からして既に異なっている。事実、武市らが観るように間もなく薩摩藩は藩を挙げて上洛行動をとることになり、長州藩も久坂玄瑞らが先頭に立ち藩論の転換に躍起となっる。
余談だが新おこぜ組のとる「富国強兵策」とでもいうべき政策は東洋の横死、土佐勤王党の壊滅後、後藤象二郎に引き継がれ土佐藩国力の増強に大きな貢献を果たすが、同時にかつて武市らが危惧したとおり、慶応期の土佐藩は時勢から完全に立ち後れを食わされる事となる。
その後も武市は何度となく監察府や参政吉田東洋にたいし藩論の転換をうったえ、種々の尽力をおこなうが、一方で絶えず他藩の形勢にも目を光らせるべく、武市は土佐勤王党の同志から四国・中国・九州への情勢探索使を何度か派遣する。
西部尊王派の首領 樋口真吉の日記『愚菴筆記』には
●『愚菴筆記』
十月十一日 坂龍飛騰
との記述が見られ、龍馬の旅立ちを伝えている。
龍馬はこの年の一〇月上旬、小栗流の皆伝目録「小栗流和兵法三箇條」を師の日根野弁治から授かり事実上、小栗流の極意を授かるに至った。
●「小栗流和兵法三箇條」伝授文句
右三箇條者当家深秘之極意也。雖為実子、志浅不適義者猥不可伝。之此三箇條之大事弟子十二人之他不伝法也。貴殿因多年信可有伝。尚昼夜無間断令工夫、可被抽武功者也。仍而許状如件。
[右三箇條は当家に深く秘す極意なり。実子なりといえども、志浅く義にかなわざる者はみだりに之を伝えるべからず。この三箇條の大事は弟子十二人のほか伝えざる法なり。貴殿の多年の信によりて伝えることあるべし。尚、昼夜、間断なく工夫され、武功をぬきんでらるべきなり。よって許状くだんの如し]
ちなみに龍馬の実力については他の項においても既に述べた。そのためココでは敢えて語るまい。はれて小栗流「極意」を授かった龍馬は、こののち「剣術詮議」を名目に時勢の探索へ旅立つ事となる。
(平成某年某月某日識)