安政五年〜文久二年
離郷送別
江戸からの帰国後、相変わらず日根野弁治や徳弘考蔵の門で日夜修行に励んでいた龍馬だが、そんなある日、親友・武市半平太が武者修行と称して西国へ時勢探索に旅立った。
●『維新土佐勤王史』
此の年[万延元年]瑞山は其の門人島村外内、久松喜代馬、岡田以蔵と共に暇を藩庁に請い、飄然として九州遊歴の途に上れり。龍馬、之を聞き「今日の時勢に武者修行でもあるまいに」と嘲りたれども、此は全く未だ瑞山の祕衷を端倪し能はざりしなり。
つまり龍馬は武市らの目的を「時勢探索」とは思わず、素直に「武者修行」が目的なのだろうと観ていたわけだ。自己の門人の中から態々「島村外内、久松喜代馬、岡田以蔵」といった腕利きを選んでいるのを見れば、龍馬がそのように判断するのもまた無理のないことだろう。
島村外内は武市半平太のあとをうけ、鏡新明智流士学館で塾監をつとめた島村衛吉の兄であり、本人もまた武芸をよくしたと伝わる。
久松喜代馬は自ら道場を開き、一日数十人の門弟を相手にする傍ら、武市道場でも師範代をつとめ、安政元年には江戸で千葉定吉道場へ入門している。『玄武館出席大概』にも龍馬とともにその名を確認でき、龍馬が塾頭をつとめたという小千葉道場のもと、ともに玄武館にも在籍していたことがわかる。
岡田以蔵は後世「人斬り」と称される「人斬り以蔵」のことで今回の旅中、久松とその武名を大いに上げている。
一行は、まず讃岐丸亀藩をかわきりに備前・美作・備中・備後・安芸・長州を経て九州へとわたり、大村藩斎藤歓之助の道場でたまたま武者修行中だった龍馬の甥高松太郎と合流する。この後、高松は久留米まで武市らに同行し、時勢探索に協力をしている。
ともあれ「今日の時勢に武者修行でもあるまい」にとの思いが当時の龍馬にはあったわけで、少しずつではあるが「志士」へと成長する龍馬の姿をここに見い出すことができそうだ。
(平成某年某月某日識)