安政五年〜文久二年
永福寺事件
文久元年三月四日、土佐では桃の節句にあたるこの日の夜、上士と下士とを対立させる一つの事件がおきた。(ただし宇賀喜久馬の墓碑と『維新土佐勤王史』はともに事件を三月三日の事としている)
四十六石の禄を給む小姓組(百二十石の馬廻とも)山田新六の長男・山田広衛と茶道方益永繁斎は節句祝いの酒宴を終えた帰り道、永福寺という寺の門前で徒士格中平忠次郎と突きあたった。忠次郎は詫びを入れ、立ち去ろうしたが相手を軽格(下士)とみた山田は酒の酔いも手伝ったのであろう、その無礼を散々に罵倒した。
やがて口論から双方ともに抜刀したが山田は『玄武館出席大概』にも名が記され、土佐では小野派一刀流麻田勘七のもと師範代をつとめるほどの腕を持つ「鬼山田」と称される剣客だ。結局のところ山田に斬り伏せられ忠次郎は死亡する。
忠次郎に同行していた宇賀喜久馬という十九歳になる若者が事の次第を忠次郎の兄池田寅之進につげ、寅之進は押っ取り刀で現場へと駆けつけてはみたが忠次郎はすでに倒れ、山田は近くの小川で水を飲み、喉の乾きを潤している。寅之進はヤニワその背中めがけ斬りかかり重傷を負わせると、近家から提灯を借用して来た繁斎をも斬り倒した。
寅之進は弟の死体を家に運ぼうとするも、今度は諏訪助左衛門・長屋孫四郎という二人の上士が現場にあらわれた。藩では死体をみだりに移動させることを禁じており、その処置を咎められる。寅之進は一旦、弟の亡骸を傍らにあった寺の門前へと戻し、改めて上士たちの亡骸は山田家に、忠次郎の遺体は池田家へと引き取られる。
これだけの事件ともなると翌朝には多くの人々が知るところとなり、山田の家には上士たちが、寅之進の家には軽格たちが集い出し、両者は互いに対決せんとの気炎をあげる。そんな池田方の中に龍馬の姿もあった。
●『汗血千里駒』
池田が健気にも士分の者を二人まで射留め、其場に弟の敵を撃しは遖晴末曽有の働きなりと、身小躍して勇み喜び万一、山田方より理不尽に踏込みも測り難ければ、池田の為に之を防ぎ生死を倶に決すべしと、同家へ馳せ集まりし軽格には、門田為之助・望月亀弥太・池内蔵太・大石弥太郎等の諸有志を始め、或い平常、池田の面さえ見織らぬ者までも互に防御の手配なし、甲乙は表門、丁丙は裏口、又戊こそは砲術に長じたれば屋に上りて能き敵を狙撃すべしなど最と厳重に固めたり。
●『維新土佐勤王史』
偶ま井口村刃傷事件起り、下士池田寅之助なる者、実弟の殺されし其の場に当の敵なる上士の剣客山田広衛を倒し、従容として屠腹したるが、坂本等、一時池田の宅に集合し、敢て上士に対抗する気勢を示したり。
このままでは上士と下士との全面戦争になりかねないと言う状況のなか「老功の者があって池田も既に本望を達した以上は、今更命を惜しむには当たらぬ。さりとて山田へオメオメ池田を渡さるるものでもない。ここはもう池田が潔く自殺して、武士の意気地を立てるの外はあるまい」(『佐々木老侯昔日談』から)と主張し結局、下士側の寅之進と喜久馬が切腹することで事は止んだ。
事件後、藩当局は山田の父新八を謹慎処分としたが弟次郎八には家督の相続を許し、一方で事件に巻き込まれた形の松井家と宇賀家は断絶処分、中平家と池田家は格禄没収との処分がなされ、下士側の人々は藩の処置に憤り、やがてこの不満が「土佐勤王党」の勢力拡大へとつながる一つの要因ともなって行く。
(平成某年某月某日識)