安政五年〜文久二年
栄女のこと
郷士坂本家の八平・幸夫妻は計五人もの子宝に恵まれている。文化一一年(1814年)生まれの長男権平直方をはじめ、文化一四年の生まれの長女千鶴、生年不詳の二女栄、天保三年(1832年)の生まれの三女乙女、最後に天保六年生まれの龍馬直陰の二男三女がそれである。
このうち生年が唯一ハッキリしていないのが二女の栄で、彼女は脱藩をもくろむ龍馬に刀をあたえ、みずからその責を負って自刃したともされている。このエピソードは小説やマンガの影響もあって、世間にもひろく知られた話だろう。しかし既に別稿や他のコンテンツでも述べているように、現在この説は史実としては完全に否定されている。
栄は坂本家の系図(「坂本氏家系」)によると柴田作衛門妻
とのみ記され、明治三年(1870年)権平によって作成された系図からは姿を消す。嫁ぎ先である柴田家は築屋敷にすむ徒士格とされ、夫の名は「作右衛門」にも作られる。
史料には系図のほか栄に関する情報がなく、資料として千頭清臣『坂本龍馬』には次女某、市内築屋敷柴田某に嫁し、のち家に帰り、貞婦二夫に見えざる旨を遺書して自刃す
と記述され、『中城直正覚書』には次姉某は城下築屋敷柴田某に嫁せしが、不幸にして琴瑟相和せず、婚後五日にして里方に帰り貞女二夫に見えざる旨を遺書して自刃せり
と記される。
二書ともに離縁後に自刃を遂げたとする点では共通する一方、坂本家には以下のような伝承もまた伝わっているそうだ。
事の真偽はともかく、うえにあげた伝承でも離縁した点は全ての伝えで共通する。伝承がこれだけ錯綜すると、混乱から尾ヒレが生じて、伝説がうまれるのもわからん事ではないだろう。
昭和六三年(1988年)栄の身代わり自刃説がほぼ通説化するなか、坂本家の墓所ちかくに、柴田作衛門妻 坂本八平女
と刻まれた栄のものと見られる墓石が、柴田宇左衛門なる人物の墓石の近くはいされて「発見」された。柴田宇左衛門の墓には嘉永五年(1852年)に七九歳で死去した旨がきざまれているので、おそらくは作衛門の祖父あるいは父にあたるのがこの当人だろう。
栄の墓については昭和四三年(1974年)、縁者が坂本家の墓地を改修したさい、誰のものとも知れない遺骨と遺髪が発見されたことによって、これを栄のものと見なし、新たに栄墓を建造した経緯がかつてある。
土居晴夫氏の『坂本龍馬の系譜』によると、六三年に発見された墓石は、前年にはすでに郷土史家の山本泰三氏によって、薮なかに埋もれた状態を目撃されていたらしく、六三年の発見は誰かが埋もれた状態からひき起こし、あらたに移動したものが「発見」報道された形らしい。
墓石は所々に痛みがみとめられ、弘化□九月十三日
と命年の一部が欠落しており、山本氏の発見よりまえに(昭和四八年頃という)、欠落部分をメモしていた前田秀徳氏によると、欠字には乙巳二年
、戒名も貞操院栄妙
と刻まれていたそうだ。
弘化二年は西暦の1845年にあたり、欠落をまぬがれた弘化
部分の情報(弘化年間は1844年から1848年まで)だけでも、龍馬脱藩の文久二年(1862年)以前の死去が確認できるので、栄の死と龍馬の脱藩は無関係と証明できる。
明治三年作成系図に栄の名がみえないのは、彼女が柴田家の女性として亡くなったことをしめし、墓石に柴田作衛門妻
と刻まれる事実がその証しにもなるだろう。岡上家を離退し坂本家にもどった乙女や、坂本権平家の後嗣高松習吉、坂本龍馬家の後嗣高松太郎らの実母千鶴たち姉妹とでは、事情が異なると明確にいえる。
なお、栄墓発見時の一部欠落について、これらの判読不能部分は、自然に剥離したものではなく、明らかに人為的に叩き割れ
たとみる説がある。人為で隠蔽目的に破壊するのであれば、ピンポイントで叩きわるべき箇所が別にあるだろうし(たとえば「弘化」部分・「柴田作衛門」部分・「坂本八平」部分など)、さらに墓石の用材に詳しい前田秀徳氏やプロの石材師から土居氏が聞いたところによると、自然剥離の線で堅いらしい。
以上、栄の自刃までは否定できないが、龍馬脱藩と姉の死が無関係だとは言い切れるだろう。
坂本龍馬とその一族 | 土居晴夫 | 新人物往来社 |
坂本龍馬 101の謎 | 菊地明・伊東成郎・山村竜也 | 新人物往来社 |
坂本龍馬伝 日本伝記叢書 | 千頭清臣 | 新人物往来社 |
坂本龍馬の系譜 | 土居晴夫 | 新人物往来社 |
坂本龍馬全集 増補四訂版 | 宮地佐一郎 | 光風社出版 |
龍馬、原点消ゆ。 | 前田秀徳 | 三五館 |
坂本家系考 | 土居晴夫 | 土佐史談会 |
坂本龍馬関係資料 | 京都国立博物館(編) | 京都国立博物館 |
(平成某年某月某日識/平成二二年八月二九日訂)