安政五年〜文久二年
時勢切迫
文久二年二月二九日、斯くて龍馬は約四ヶ月間の国暇を終え、武市半平太ら土佐勤王党同志の待つ故国へと帰郷し、また我が家へと帰りついた。
●『福岡家御用日記』(『土佐維新史料』版)
二月廿四日
一、御預郷士坂本権平弟龍馬儀、去一一月讃州丸亀江剣術詮議為罷越居候所、詮議不相済候付、彼地より芸州坊砂江立越、詮議致度候間、今二月迄月延之願奮冬相済候に付、此度立川口入切手被仰付度趣を以差出及。其手首尾郷士牒之通也。
三月二日
一、御預郷士坂本権平弟龍馬儀、剣術為詮議他邦江罷越居候所、去月廿九日之夜致帰足候旨届出候に付、取次方江及。届方郷士牒に詳也。
『維新土佐勤王史』や「武市瑞山年譜」など諸資料によると先に龍馬が土佐を離れてのち、山本喜三之進・大石団蔵、吉村虎太郎の二組が土佐勤王党から長州へ派遣されている。
まず一二月上旬、山本・大石の二人が土佐を離れ、長州萩において久坂玄瑞・高杉晋作・大楽源太郎など諸有志と会見を行った。ここで両者は互いの藩状を詳らかに語り、久坂から一書を託され、大石は薩摩入国をはかり九州へ、山本は書簡を携え急ぎ土佐へと帰国した。その山本が持ち帰った書簡は以下のようなモノである。
●文久元年一二月二一日付久坂玄瑞より武市半平太宛書簡
毫末ながら御同志中へも宜しく御鳳声下さらる可く、此の後は逐々御書状御往復仕り度候。
大石・山本二君、御来遊にて承り候所、其の後御清栄在らせられ候段、大賀奉り候。僕、一〇月一二日帰国仕り候。百事齟齬碌々眠食仕らず候段、御はずか敷き事に之有り候。[中略]尊藩御事も二君より承り候所、何共御苦心之段、察し奉り候。弊邑も萎靡至極にて二君御来遊之思し召し通りにも相叶い申さず、面目も之無き次第に御座候。僕等一両輩、友人共申す様は諸候頼むに足らず、俗吏依るに足らずと存じ候。之に依る様にてはとても天下に裨益する事は相叶いまじく、此の節は仕方之無き様に存じ候也。折角の二君御来遊を幸に政府の因循打破い度存じ候えども、それにても徹底仕らず残念之至りなり。二君明朝、薩を指し御発行に相決し申し候。彼藩も矢張り別段之快事も之有る間敷くと存じ候。二君も吃と確乎不抜之御議論之無くてはとても御志通に相成り申す間敷くかと御気遣い申し上げ候。何も草々此の如く。
[中略]
二白 折角御厭い申すも疎かに御座候。厳寒風雪之折柄、二君遠路態々御来遊何とも感佩奉り候。然る所、御志通にも相成り申しかね、何とも御気の毒千万に存じ奉り候。しかして役人共に関係せぬ事にて、僕等友人中にて御相談下さられ度き事も御座候えば何時仰せ越し下さる可く、如何様にも熟考仕り申す可く存じ奉り候。已上。
委曲の事は二君より御聞き取り下さる可く候。
当時、土佐藩は吉田東洋の「新おこぜ組」が藩政を牛耳り、長州藩では長井雅楽が「航海遠略策」(簡単に言ってしまえば朝幕間が相融和し積極的な対外振興策をとるといった考え)を唱え、公武合体を推進するという状況下にあった。東洋の主張もまた長井に通ずるものがあり、無人島の開拓や新造蒸気船の健造など、龍馬にも影響を与えたかと思われる施策が多い。つまるところ武市や久坂ら、挙藩勤王を誓った同志たちとって甚だ面白くない情勢といえ、その事は手紙がらも読み取れよう。
続いて年も変わった文久二年二月、今度は吉村虎太郎が武市の書簡を携え萩へ来訪。両者の会談内容については『江月斎日乗』に詳記されているが、さすがに当コンテンツの趣旨とズレかねないためここでは略す。
ちょうど吉村が萩を訪れたのは坂下門外の変や島津久光の卒兵上洛など、種々の情報が萩へともたらされた時で、久坂からこれらに関する「秘事」を聞かされた吉村は、急ぎ土佐へと帰国。武市に対し挙藩勤王ならざるうえは有志を率いての脱藩上洛を主張したという。
この脱藩上洛策は島津久光の卒兵上洛に呼応し、武力行動をともなった「勤王の旗揚げ」をなさんためと解釈されるが、武市は初志貫徹の姿勢を崩すことなく、この吉村の論を退けている。
島津久光上洛の噂は文久元年の一一月に正確とはいえないものの既に土佐へもたらされており、このたび吉村が確報を伝えるにおよんで、土佐勤王党の内部でも脱藩上洛論あるいは吉田東洋の暗殺論などが次第に紛糾をきたし、龍馬もやがて一つの決断を下すこととなる。
(平成某年某月某日識)