安政五年〜文久二年
潜行活動
約半月のあいだを丸亀藩矢野道場を拠点に過ごしたと思われる龍馬は、同地より坂本権平にあて剣術詮議の延長を願い、これを許されると安芸国坊砂へ瀬戸内海を渡った。
●『福岡家御用日記』(『土佐維新史料』版)
[文久元年]一一月一三日
一、御預郷士坂本権平願之趣、取次方より相済来候事。
[文久二年]二月廿四日
一、御預郷士坂本権平弟龍馬儀、去一一月讃州丸亀江剣術為詮議罷越居候処、詮議不相済候に付、彼地より芸州坊砂江立越詮議致度候間、今二月迄月延之願旧冬相済候に付、此度立川口入切手被仰付度趣を以差出、都合三通差出及其手首尾郷士牒之通也。
四国から本州にいたる龍馬の行動を伝えるものとして、土佐勤王党の同志・望月清平が記した『陣営日記』なる史料が伝えられる。
●『望月清平陣営日記』
一、文久元年一一月六日、坂本龍馬、旅宿より住吉陣営へ書状来(小生[望月清平]宛)、長州より来る趣。
一、同一一日、旅宿に訪い面会。
この史料は『維新土佐勤王史』において紹介されるものだが、歴史家 平尾道雄氏は同史料について「この記述を信じてよいかどうか。長州側にそれを立証する記録はないし、望月清平の『陣営日記』と題するものも私は見ることはできなかった」と語り、存在そのものに疑問を投げかけている。
平尾氏が先のように述べるのには理由がある。『維新土佐勤王史』において龍馬は長州藩の長嶺内蔵太・山県半蔵と国境は立川で会見し、長州へ潜行した帰途、大坂住吉へ立ち寄ったように記されており、これは「長州側にそれを立証する記録はない」のである。また平尾氏本人が人から伝え聞いた話によると、潜行云々の記述は同書の著者・坂崎紫瀾の「即興」であるらしい。
こうなれば、山内家々史編集所につとめていた経歴のある平尾氏にすら閲覧することのできなかった「望月清平陣営日記」なる史料が実在するのかどうか、懐疑的になるのもやむを得ないだろう。
とりあえず、長嶺内蔵太や山県半蔵らと長州へ潜行したのかどうかは兎も角として、本州へ渡ったのち、龍馬は何をしていたのか。この旅本来の目的は龍馬が最終的に長州で久坂玄瑞や薩摩藩の田中藤蔵と相接していることから、他藩尊王派と気脈を通ずることにあるのは言う迄もない。しかし龍馬が会見の相手と目していた久坂玄瑞は、同年九月七日まで江戸におり、長州へ帰り着いたのは一一月一一日と久坂本人の日記『江月斎日乗』にはみえている。
すると龍馬は本州へ渡ったのち直ぐさま長州へ向かったが久坂の不在を知り、反転して大坂住吉へ下ったのだろうか。「望月清平陣営日記」にある「長州より来る趣」との記述を合理的に解釈すればそうなるのだろう。もっとも推測の域を出る話ではないし、龍馬が本州に渡った時期を「一一月の初頭か中旬頃か」との判断しかできない以上、断定することに筆者は戸惑いを感じる。
また少し時間は戻るが、後年「大津事件」で大審院々長をつとめた伊予国宇和島藩の陪臣児島惟謙の伝記には龍馬に関連する以下のような記述がみられる。
●『新編児島惟謙』
文久元年土州藩の坂本龍馬は坂谷屋梅次郎と変名、宇和島城下に入り町会所の二階に止宿して宇和島の御庭番と剣術の手合行ふ等画策することがあった。坂本龍馬は土佐藩の「御庭番」で「一水御出入方」と称す該藩諜報機関の主級であった。惟謙は此の時、龍馬と面識を得たのである。
まるで講談中の柳生十兵衛よろしく、さながら「隠密剣士」のような扱いを受けている龍馬が面白い。真面目に考えれば御庭番云々の記述は俄に信じがたいところだが、他の児島惟謙伝にも龍馬が同年、宇和島を訪れた旨が記されているらしく、この前後に龍馬が宇和島を訪れたのは事実なのかも知れない。また一説には同年、児島自ら土佐の龍馬を訪ねたとも伝わっている。
なお余談だが児島惟謙は安政六年頃に同藩家老梶田長門に招かれ、同家の剣術師範をつとめているのだが、その他人の伝記に剣客
として龍馬の名が登場するのを観ていると安芸藩士丹羽精蔵の略伝に登場する例とあわせ、龍馬の「剣客」としての声望が知れる。
これらのことから龍馬の旅場合、単純に長州行だけを目的としたのではなく、丸亀藩や宇和島藩における勤王活動も視野に含んだうえで出立したのではないだろうか。のちに同じく武市の依頼で長州へ旅立った大石団蔵と山本喜三之助、吉村虎太郎らとの扱いや日程、樋口真吉の記した坂龍飛騰
の字句に筆者は少なからず考えさせられる(所詮、筆者個人の推測でしかないが)。
(平成某年某月某日識)