安政五年〜文久二年
腰間の一刀
話題はやや前後するが、龍馬はさきの「剣術詮議」から帰国後、いよいよ脱藩の決意をかため、それに向けた行動を開始する。
同志への働きかけや路銀の調達など下準備としてやるべきことは多く、ために兄 権平もその空気を察し、万一のことを恐れて龍馬からは佩刀を取りあげ、親類中にも警戒を怠らぬようにあらかじめ通達したと伝えられる。
坂本家の御子孫にあたられる土居晴夫氏の著書によれば、龍馬は脱藩の前日にあたる文久二年三月二三日、才谷屋の守神をまつる和霊神社へ花見に行ってきた帰途と称し、佩刀を借り受けるべく才谷屋へ足を運んだが、店では家の掟をタテに刀を渡そうとはしなかったという。
千頭清臣『坂本龍馬』によると、龍馬は親戚の広光左門から路銀として十両を借り受けたようで、ほかに継母伊予の婚家である川島家から幾分かの金子を借用したとも伝えられる。
以上のように路銀だけなら龍馬もいくぶんか調達することも出来たようだが、いざ脱藩するとなると武士にとって肝心の刀がなくてはお話にならない。そんな龍馬を見かねて救いの手を差し伸べてくれたのは、やはり最愛の姉 乙女だったようである。
この件に関連する伝記の引用については前項を参照して頂くとして、伝記のほかに「涙痕録」の記者(立志社の社員と推定されるが不祥)もまた龍馬に刀をあたえた人物が乙女であった旨を「龍馬の姉とめ子は龍馬の兄権平に包みかくして、窃かに庫中より肥前忠広の業物を取り出して与えし事ありと云う」と認めている。
このさい龍馬にあたえられた刀は「肥前忠広」とも「陸奥守吉行」だったともいわれ、二説あるように伝わるが、伝記は刀を肥前忠広とし、与えた人物もみな乙女として一致している。
陸奥守吉行の移譲については異説が多く、慶応年間に西郷吉之助から譲られた刀であるとも、坂本家の二女栄から脱藩のみぎりに贈られた刀であるとも紹介されるが、実際には慶応三年の三月以降、権平から西郷吉之助をへて龍馬に送り届けられた刀であることが龍馬本人の手紙(慶応三年六月二四日付書簡)からも確認できる。西郷から譲り受けたとする説は、この経緯を誤伝したものだろう。
楢崎龍は脱藩時における龍馬と権平のやり取りについて次のように語り、藤田栄馬の妹 安田たまきも龍馬脱藩後の権平について以下のように語っている。
●川田雪山『千里駒後日譚』
忠広の刀、あれは兄[権平]さんが龍馬に「この刀が欲しいか」と云うから「欲しい」と云えば「脱走せねば与る」と云う「そんなら私も思案して見ませう」と一旦返したそうですが、のちに甲浦[高知]まで帰った時、兄さんから龍馬に送って呉れたのです。長州へ持って来て見せました
●安田たまきの談話
[龍馬が]高知を脱藩してから二日経って後に、兄の権平さんが私の方へ来て兄に「栄馬、オンシの家へ刀を持って来ちょりやせんかねや」と権平さんが大切にしておった刀の詮議に来られましたが兄が「来ちゃあおらん」と言うと「それじゃあ、どうも龍馬が一昨日家を出たきり帰って来んが脱藩したらしい。人を雇う詮議すると、須崎で油紙に刀らしい物を包んで背中に背負うた龍馬の姿を見た人があるそうじゃが、それから先のことは判らんきにのう」と権平さんは語っていました。
この楢崎龍の証言に信を置くなら龍馬が脱藩のさいに持ち出した刀は肥前忠広でも、陸奥守吉行でもないことになる。
しかし伝記史料は言うにおよばず、安田たまきの証言もまた龍馬が刀を持ち出したことを伝えており、権平の刀を持ち出したこと自体は疑いないと観ていいだろう。なお後年、土佐勤王党の五十嵐幾之助も龍馬が肥前忠広を佩刀していた旨を伝えている。
なお楢崎龍の証言について筆者個人の推測ではあるが、慶応三年の八月、龍馬はイカルス号事件の審問にともない土佐は須崎港へと帰港しており、そのさい龍馬は書簡で権平へ英国艦来航の事情をつたえるとともに古刀「了戒」の拝領を願っている。
このさいその了戒が龍馬に届けられたのかどうか、それを証する史料は確認できないが、土佐を出港後、龍馬は一旦下関へ帰港し楢崎龍との対面後、長崎へと船をむけることになる。
つまり楢崎龍はこのさい龍馬から見せられた了戒の刀を肥前忠広と取り違えて語っているのではないだろうか。もっとも個人的の推測の域を出るものではないので、聞き流してくれて結構である。
さて、秘蔵刀「肥前忠広」を持ち出された権平は所蔵品の紛失を附属先の家老福岡家へ届け出た。下はその記録である。
●『福岡家御用日記』
三月二七日 御預郷士坂本権平所蔵之刀紛失之旨届出候事。
四月七日 一、御預郷士坂本権平儀、所持之刀散失致候段届出、取次方江相達候事、郷士牒ニ詳也。
この記録にたいし「届け出が二重になっており、この矛盾は不審である」といった「福岡家御用日記」の史料的価値に疑問符を投げかける動きもあるが、よく読めばわかるように、権平から福岡家に届け出があったのが三月二七日、福岡家から取次方に届け出をしたのが四月七日と内容的に別段矛盾がする表現ではないだろう。
(平成某年某月某日識/平成一八年二月二七日訂)