[中岡慎太郎は]当時[慶応元年]土州脱藩士五六十在せりと雖ども恐らくはその巨魁なるべし。坂本龍馬・近藤昶次郎・清岡半四郎・橋本鉄猪の諸人物、また肩を並ぶべし
[薩摩・長州]両藩之情実最初より関係仕候能々相弁居候者、横山勘蔵・才谷梅太郎[中岡慎太郎・坂本龍馬]両人
[薩長]提携運動を起こした坂本・中岡の苦心というものは、なみ大抵のものでない。勤王倒幕の第一線に立って、剣戟弾雨の間に活躍した勇士の功も、むろん没すべからざるものだが、と同時に両先輩が両藩の感情を融和せしめて共同作戦の下に維新の機運を開いた努力を忘れてはならない。もし両先輩が存在しなかったら、薩長の連合は行われなかったかもしれない、そうなると維新の大業は完成しなかったかもしれない。完成しても、よほど遅れることになったとみねばならない
[同盟締結直前における龍馬の活躍を評し]もしこの時、薩長物別れになったら、どういう結果になったであろうか。今から考えてもハラハラさせられる。[中略]全く坂本の力であったのである。[中略]龍馬の功績は何としても、この一事を見逃してはならない
[有名な龍馬の写真を評し]あれはよくできすぎちょる。ほんとは色が黒うてのう。背丈は大がらで五尺七寸ぐらい。あんな好男子じゃなかった
龍馬は詩[漢詩]など書くような男ではなかった
坂本という男は元より画など描いたことのないのに其の死んだ後に坂本の描いたという偽の書や画が盛んに出る。中には立派な印を押したものさえあるが僕は坂本は印など持って居ないと信じていた所が[中略]下関旧本陣[伊藤九三]の家にある坂本の手紙の中に梅の花片を五ツかつらねて其の中に太郎という字を彫ってあるのがある。つまり才谷梅太郎ということだ。これは意外だ。やっぱり坂本も印を持っていたものだ。この時あまり大きな口は叩けぬものだと驚いたことがある
闊達磊落な男で、長州でいえば、高杉晋作の型に似ている
[龍馬が楢崎龍を連れ一緒に出歩くことを評し]これには、どうも驚かされた。男女同行はこの頃はやるが龍馬は維新前石火刀杖の間において平気でこういう狂態を演じていた。そういうところは高杉とそっくりである
あまり人には見せなかったが裸になると背中は真黒だ。そのうえ黒毛がさんさんとして生えていたのは珍しい『龍馬のいわれがわかったか』彼はそう言ったものだがなるほど、この背中を見ると龍馬の名にふさわしかった
[龍馬は]見廻組・新選組のものにしきりにつけねらわれた。『君は危険だから、土州藩邸に入れ』伊東甲子太郎がこうすすめたこともあったが彼は聞き入れなかった。藩邸に入ると門限その他、万事窮屈の思いをせねばならない。自由奔放、闊達不覇の彼はそういうことを好まなかった。で、やはり名をかえ藩邸の附近に宿をとっていた。のみならず彼は平生『王政維新の大業さえ成就したなら、この一身もとよりおしむ所にあらず、もう無用の身だ』といっていた
[皇后の瑞夢を評し]坂本は海援隊を組織して、その指揮をしていた。これは中岡の陸援隊に相対したものであって彼の意中には海国日本の開発を抱蔵していたことは誤りない。[中略]龍馬の献身報国の至誠は死後といえども祖国の上を守っている。死してなお死せずというのは思うに龍馬のごとき人物であろうと思われる
田中光顕
[今井信郎が暗殺の下手人であると告白した事に対し]両人[龍馬・中岡慎太郎]共に武辺の場数者、特に坂本は剣術の秀逸なれば、顔を見合して話をしつつヲメヲメ斬らるる恥鈍漢にあらず。実地を予の目撃せし所とは大なる相違あり。今井は売名の徒なり
[龍馬・中岡慎太郎の没後を評し]両士[龍馬・中岡慎太郎]の倒れし殆と瞽者の杖に離れし思いあり
[龍馬・中岡慎太郎式年祭における谷干城の祭文][龍馬・中岡慎太郎]両君が国家に尽されし誠忠大義は天下皆知る所なり。何ぞ余輩の贄言を待たんや。ただ両君が我が土佐のため、我が山内家のため、汲々として心思を尽されしは之を知るもの鮮し。これ余は一言して両君の霊に感謝すると共に世のコウコウたる鄙夫が国を去り悪声を放つの徒とすこぶる其の撰を異にし、其の慮り周密其量海の如し。これ余が天下に告白せんと欲する所なり。回顧すれば慶応三年に到り天下の形勢、日に益す切迫せるや二君故国を思うの情に堪えず、つとめて郷里の同志を誘挺提携し且つ告げて曰く『此般の大事に少数人士の能く為す処に非ず、細故を棄て旧怨を忘れ、一致協力国家に尽さざるべからず。吾輩多年諸国を浪々何の得る所なし、事已に急なり個々の忠情精手とイエドモ遂に何か益かあらんや、只速に一国を打て一団となし、一致の運動を計らざるべからず』とこれ両君が細故を棄て大義を講じ我が土佐の為め心力を尽し肝胆を砕かれし所以なり。[中略]坂本君が特に嫌疑を深き身に拘わらず、突然三千挺の小銃を輸送して土佐に還り戦争の脚下に起るを警告せしが如き、天下これを知るもの鮮し。嗚呼、南洲翁[西郷隆盛]が寛弘の量、坂本中岡両君が我が土佐の為に尽されし誠意遠謀は余輩之を回想する毎に涙の潜然たるを覚へざるなり。然りとイエドモ両君逝て僅々四十年、黄龍八巳に鼻端を屈し、大鷲は巳に羽翼を殺がれ四海波を揚げず、旭日隆々中天に昇る両君の志正成矣両君其れ瞑すべし
谷干城
土佐の坂本さんが私の家に入門してきたのは嘉永六年四月で、坂本さんは十九歳、私は十六歳の乙女でした。坂本さんは翌年六月には帰国し、安政三年八月に再び私の道場に参り、修行に打ち込んでおりました。さらに一年滞在延期の許可を得たとかで引き続いて道場に滞在し父は坂本さんを塾頭に任じ、翌五年一月には北辰一刀流目録を与えましたが、坂本さんは目録の中に私たち三姉妹の名を書き込むよう頼んでおりました。父は『例の無いことだ』と言いながら、満更でもなさそうに三姉妹の名を書き込み、坂本さんに与えました。坂本さんは二十四歳、私は二十一歳となり、坂本さんは入門した時からずいぶん大人っぽくなり、たくましい青年になっておりました。私も二十一歳ぽつぽつ縁談の話もありましたが私は坂本さんにひかれ、坂本さんも私を思っていたと思いますし、父も『坂本ならば』と高知の坂本家に手紙を出したようでした。[中略]私は心を定めて良い縁談をも断り、唯ひたすら坂本さんを待ちましたが、忘れもしない慶応三年一二月、三十一歳なっていた私は坂本さんが一一月一五日京都で暗殺された事を知らされました
千葉佐那
坂本殿は至極磊落なる人ゆえ、幼少なる私の妹共も対手とし打緩ぎ居られ候
あるとき土州藩士来り、亡母[寺田屋登勢]に対し申さる様『予は実は藩命を帯び坂本を捕えに来たる者なり。然るに彼れは京都に在るかと思えば忽ち下関に長崎にと移行き暫くも居所定まらず始終その後を追うのみなる。また偶に遭遇するは弁舌にて説伏せられ、手に出し方なく了り実に始末にならぬ男なり』と、申されたる事これ有り候
寺田屋伊助
[寺田屋襲撃事件前後の模様を龍馬へ伝える手紙で][伏見奉行所の]捕手の人が大いに心配致し『どうしょう、こうしょう』と、いろいろ恐れ『誰いけ、彼いけ』とその混雑はいわんかたなく其の女[お登勢自身]が思い候には『こんな人が幾万人捕手にかかるとも其の両人[龍馬・三吉慎蔵]の人には所詮かなわず』という事、心の内に思い、このだん安心致し申し候
[事件後も無事に商売が続けれた事を評し]これも全く其の御方[龍馬]に少しのくもりもなき事ゆえと存じ、誠に誠に有り難くおもい候
寺田屋登勢
(平成某年某月某日識)