『瑞夢』という新体詩が発表されました。そこであの坂本さんが『死んで護国の鬼となる』と歌われていらっしゃいます。生前のずぼらでのんき坊主の坂本さんを知る者には『護国の鬼』となられた坂本さんを想像しにくうはございますが、もしかしたら坂本さんは実はあのころから私ども女子供にわからないくらいお偉い方であったのかもしれないと、弟妹たちと語りあったものでございます
べつだん一目をはかばるふうもなく現れた坂本さんを見て、険しい顔のお武家が多い昨今『ずいぶんのんきそうなお方だなあ』とみんなして拍子抜けいたしました。それに美男というわけでもないのに、お洒落っぽいところがなんとなくおかしゅうございました。[中略]坂本さんときたら絹のお着物に黒羽二重の羽織、袴はいつも仙台平時には大胆に玉虫色の袴などをおはきなって一見、おそろしくニヤけた風でございましたが胸がはだけてだらしなくお召しになっているので、せっかくのお洒落がだいなし。後のことですが中岡慎太郎さん(この方はまたちっとも構わぬお人でした)が『坂本はなんであんなにめかすのか、武士にはめずらしい男じゃ』と、お首をふりふりなんども不思議がっていらっしゃいました。まず娘の私たちが坂本さんになついてしまいました。[中略]坂本さんは昼と夜ととりちがえたようなお暮らしぶりで、昼間はぐっすり寝込んで夜になりますとどこかへでかけ出かけて行かれる、そんな日がしばらく続いたかと思うと、突然、何ヶ月もお留守、毎日々々判でおしたように規則正しく暮らしております私たちには、まったくわけのわからぬ風来坊のようなお方でした。でも、いつしか私たちは坂本さんのお帰りを心待ちするようになっておりました。そしてその気持ちは母も同じようでございました。母は坂本さんにたいしてずっと年上の姉か、母親のような態度で接しておりました。でも、坂本さんが御逗留のとき、いつもと変わらず忙しく立ち動きながらも、母の気持ちはいつも二階にあったようです
坂本さんは色が黒く眼が光っていてずいぶん恐いお顔でしたが、笑うとてもあいきょうがおありでした。母の目をぬすんでは、妹たちをひきつれて私は坂本さんのお部屋におしかけましたものですが、坂本さんは『よく来た、いいものを見せてやろう』と行季からオモチャのような鉄砲をとりだして『これは西洋のピストルというんだ。捕手が来たらこれでおどかしてやるきに』とニコニコ笑われました。ある雨降りの夜など、私たちをずらりと前に並べて、みぶりてぶりよろしく怪談をはじめられるのです。[中略]ただでさえ恐い顔をいっそう恐い顔をいっそう恐くして両手を前にたれ『お化け』と中腰になる、実に凄い。私たちはなかば本気で『キャッキャッ』と叫びます。そうするときまって母が階段をかけ上がってきて、『騒いではいけまへん、なんべんも言うておりますやろ。坂本はんも気いつけておくれやす』と説教を始めますが、『なあに構うものか、知れたら知れたときのことさ』と取りあわない坂本さんを母がもうムキになって注意するそれは楽しい光景でございました。父伊助とは作ることのできなかった家族の団欒のようなものが、そこにはたしかにございました。この先ずっと父がすわる場所に坂本さんがいてくれたらと、娘心に願ったものでしたが、もしかしたらそれは母の願いであったかもしれません
殿井力
故人[坂本龍馬]を一言して評すれば稀に見る勤王家で極く大膽な度量の多い反面には亦た非常な真面目の且つ親切な人であった。背丈高く肉附が良く、恰度今の海軍々令部長島村大将[島村速雄]に彷彿たる格好で風貌魁偉な處にも何処やらに優しみのある柔和な顔であったと記憶する。何分故人が自分の世話を焼て呉れた当時は私は八歳の腕白盛で其頃トンコロリと言って非常に流行した安政の虎列拉(コレラ)に自分の母親が罹って亡くなったのでツイ近所であった龍馬氏は廿歳前後の屈強な剣士であったのであるが、毎晩のように訪ねて来て呉れては私の旧名、春弥を呼で親切に慰め労わって呉れた。殊に私が九歳の正月、足袋が間に合わぬので外出する事が出来ず困っているのを見て、祖母を手伝って片足の足袋を逞しい指先で縫って呉れた上、着物まで着せて呉れて「夫れ遊びに行け」と手を取って連れ出して貰った事などもある。其当時は武芸が旺であったので、当時日根野[日根野弁治]と言う道場に通っていた龍馬氏は折れた竹刀を合せて立派な子供の竹刀を拵え、武士の子供は剣術が出来ねばならぬと言って、親切に教えて呉れた。此の様な風で藩の者からは非常に評判が良かったが、その大膽な事も驚く許りで、私の継母の実家の池田[池田寅之進]と言う者が正義の為、喧嘩をして相手を切り殺し大騒ぎをしている處へ単身出掛けて行って、群る相手を追い払い、立派に介錯して遣った事には衆人が其豪勇沈着さに舌を捲いた。此のような事は屡々見受けられた[1]あさくらゆう氏の公式ブログ「無二無三」2018年11月15日0時0分付記事「追悼〜坂本龍馬」紹介の「報知新聞」大正五年一一月一六日付記事からの引用。
豊川良平
(平成某年某月某日識/平成三〇年一一月二〇日更新)