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薩摩藩


西郷吉之助  薩摩藩御小姓組西郷吉兵衛の長男。安政元年、藩に提出した意見書が藩主島津斉彬に認められ江戸参勤に随従。まもなく庭方役(藩主の私用的な秘書)に抜擢され将軍継嗣問題に奔走、橋本左内や藤田東湖ら一流の人物と知り合い強く啓発されている。斉彬の死後、勤王僧侶・月照を匿まったものの国父島津久光がこれを許さず、月照と二人で入水自殺をはかり西郷だけ蘇生した。その後、二度の島流しを経て中央政界に復帰。禁門の変や第一次長州征伐で活躍。その後、龍馬と中岡慎太郎の仲介で薩長同盟を結ぶと四賢侯会議などを企画したが最終的に討幕へと邁進し、大政奉還後たびたび幕府側を挑発、計画通り開戦の狼煙をあげさせ戊辰戦争で勝海舟との会談で江戸城を無血で開城させている。
 新政府では征韓論争に破れ下野。明治十年、不平士族らに我が身にあずけ西南戦争を戦い、敗れて自刃した。その人物と功績から「維新の三傑」の筆頭にあげられている。贈正三位。

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大久保一蔵  薩摩藩御小姓組大久保次右衛門の長男。弘化三年、記録所書役助に就いたものの父がお由羅騒動に連座したため大久保も免職。嘉永四年、島津斉彬が藩主の座に就くと復職し、在位七年で斉彬は死去したが国父として実権を握った島津久光に接近、藩政におもきをなすようになる。慶応元年、薩長同盟締結の動きが活発化すると藩を代表して第二次長州征伐の拒否を幕閣に表明。その後、岩倉具視と協力して朝廷工作に活躍し「討幕の密勅」や王政復古の大号令を成功に導いている。
 その巧みな政治手腕から「維新の三傑」の一人に数えられる。維新後は征韓論争で盟友西郷吉之助と対立、西南戦争が勃発すると、これを武力で鎮圧させた。翌年、政治を自己の私腹を肥やすための道具として利用しているとの理由から不平士族らに暗殺された。だが親族が大久保の遺産を調べてみると私腹を肥やすどころか借金の山しか残されていなかったと言う。贈従一位。

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小松帯刀  薩摩藩喜入領主肝付主殿の三男として生まれ、吉利領主小松清猷の養子となる。文久元年、島津久光の人事改革で側役に登用され、自身も西郷吉之助や大久保一蔵ら実力ある下級藩士を藩政へと引き上げる。文久二年、家老へと昇進して上洛、主に京都政界を中心に活躍した。龍馬とも親しく、神戸海軍操練所閉鎖後の薩摩行きや亀山社中の結成、お龍との新婚旅行など何かと世話を焼いてくれている。慶応三年、討幕計画を進めると同時に龍馬ら土佐藩が提示する大政奉還案にも同意、その真意は不明だが龍馬のように二段構えで政局にあたっている。
 新政府では参与職・外国事務局判事などをつとめたが若くして病没した。人事面において西郷や大久保の登用、龍馬の亀山社中への援助など維新史に残した功績は大きい。

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五代才助  薩摩藩町奉行兼儒者五代秀尭の二男。藩校造土館で文武を学び、安政五年に長崎海軍伝習所に入門。そこで勝海舟や榎本武揚らの知遇を得る。文久二年、高杉晋作らと上海に渡航して薩摩藩にドイツ汽船天佑丸や武器を購入して帰国。薩英戦争では英国軍の捕虜にされたものの脱走に成功している。慶応元年に藩の留学生を率いて和解した英国に渡航、再び武器などを購入し、通商貿易の発展に尽力した。龍馬とは大洲藩からの人材派遣の依頼や「商社示談箇条書」、いろは丸事件の裁定など商業面での交流が多かった。
 維新後は官を辞して実業界に転身、大阪で為替会社を指導したのち大阪株式取引所、大阪商法会議所などを創立。大阪財界の恩人である。贈正五位。

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吉井幸輔  薩摩藩士吉井友昌の長男。安政三年に大坂薩摩藩邸の留守居役となり諸藩の志士たちと交流、勤王僧侶・月照の大坂脱出に尽力している。その後、一旦帰国して大目付に抜擢され藩主らと上洛。西郷吉之助が島流しにされた沖永良部島にその召還使として赴むき、再び上京、西郷らと禁門の変に参戦した。龍馬が寺田屋で幕使に襲撃され、療養場所を伏見薩摩藩邸から京都薩摩藩邸へ移動するさいその護衛の指揮にあたり、龍馬らの新婚旅行では自宅を宿舎として提供している。龍馬もまた長年所蔵していた「来国光」と鑑定された短刀を吉井に贈り恩にむくいた。
 戊辰戦争では東北各地を転戦、新政府で要職を歴任後退官。日本鉄道株式会社の社長をつとめた後に再び官職に復帰し、憲法草案の起草などにあたった。ちなみに歌人として有名な吉井勇は孫にあたる。伯爵。

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中村半次郎  薩摩藩御小姓与の子。通称「人斬り半次郎」。その流派は野太刀自顕流で雨戸から滴り落ちる雨水を地面につくまでの間に抜き打ちで三度両断することができたと言う。幕末期は主に心酔する西郷吉之助の護衛や密偵として活躍。長州に忍び込んで内状探索を行なったこともある。龍馬とは暗殺される五日前、散歩途中に出会った事がその日記に記され、葬儀がすんだ一一月一八日になってすぐ龍馬・中岡の墓参りにも訪れている。
 戊辰戦争では東海道先鋒総督軍に所属し、上野戦争で斬り込み隊の先頭に立って奮戦、会津戦争では会津若松城受け取りの大任を果たしている。維新後、陸軍の要職を歴任し、西郷に従って下野。西南戦争では「丁重の役は桐野どんの戦でごわした」と評されるほどの奮戦ぶりを見せ、壮絶な討死にを遂げている。贈正五位。

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(平成某年某月某日識)

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