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坂本龍馬の目録

その他

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えにし

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坂本龍馬

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その他(一)


トーマス・グラバー  スコットランド出身でフレイザーバラ生まれ。ギムナジウム在学後、上海を経由して長崎に来日。文久二年、貿易商社グラバー商会を設立、雄藩を顧客として商売を行ない財を積んだ。薩長同盟において、銃器や蒸気船ユニオン号を亀山社中を通じて長州へ売却、同盟斡旋に重要な役割を担った。のちにグラバーは「徳川幕府に反逆したなかでは自分が最大の反逆人だろう」と語っている。
 明治元年、戊辰戦争による需要増大を見越して武器を大量に購入。しかし、短期間のうちに戦争は終結、倒産の憂き目を見ている。その後、三菱の技術顧問をつとめ、麒麟麦酒会社(キリンビールの前身)の会長として活躍した。東京にて没する。

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近江屋新助  京都河原町で醤油業を営んでいたという近江屋新助の子。安政六年に家業をつぎ二代目「近江屋新助」を名乗る。土佐藩の御用達をつとめ財をつむ一方、尊王派志士たちをよく支援した。慶応三年、龍馬の経歴を土佐藩から知らされると、心良く龍馬を自宅へと匿まい、龍馬のために土蔵を改装しては密室をこしらえ、いざという時には裏の称名寺に脱出できるよう整えたとも言われ、同年一一月一五日の刺客襲撃では、見張のいなかった裏口から土佐藩邸に急を知らせてたと伝わる。
 慶応四年、京都を舞台にした鳥羽伏見の戦いでは薩長土など尊王派の後援に尽力し、軍資金や食料の援助、傷病兵の看護のほか輜重方なども引き受け、みずから武器弾薬を醤油樽に隠しては敵の歩哨線を突破したと伝えられている。贈従五位。

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菊屋峰吉  京都の土佐藩御用達の書店菊屋の長男。龍馬や中岡慎太郎から「峰や」と呼ばれ可愛がられた。はじめ中岡が菊屋に下宿するようになってから交流を重ねるようになった。ある日、龍馬の依頼で団子売りに変装しては新選組屯所の偵察を行なったとも言う。龍馬と中岡が暗殺される夜には、中岡から頼まれた使い終え、近江屋を訪れたが再び龍馬から軍鶏を買う使いを頼まれたため難をまぬがれ、近江屋に戻ったところで暗殺を知り、裸馬に飛び乗って白河陸援隊屯所に急を知らせた。
 維新後、東京で元五十人組総頭だった宮川助五郎に会い酒のため没した宮川の遺骨を霊山に分骨。明治十年の西南戦争では熊本鎮台司令長官谷守部の知遇を得て会計軍夫として従軍した。

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肖像無  近江国大津の農家の家に生まれる。幼少のころから腕力に優れ相撲取りとなる。醜名を「雲井龍」と称し十両の関取りとなったものの勝負根性に難ありということで廃業。京都の料亭武乃屋の出前持ちをつとめ、龍馬の下宿先、材木商酢屋に出入りするようになった。菊屋峰吉または長岡謙吉の紹介で龍馬の用心棒兼世話役をつとめることになる。士に憧れ、暇を見つけては剣術修行に精を出し、龍馬から士としての覚悟があるか聞かれると「それは吃心得ます」と答え、龍馬も熱心に働く藤吉を信頼して大小を与えた。坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺の夜、刺客とは知らずにその応対にあたり、六太刀ほど斬られ翌一六日に没した。

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肖像無  長崎の書家小曽根六郎左衛門の長男。書画や月琴に優れ、その隷書は「天下一」とも称された。江戸で福井藩主松平春嶽、幕臣勝海舟らの知遇を得て福井藩の御用商人となる。龍馬とは勝の長崎行きに龍馬が随行したさいに知り合ったものらしい。海援隊士小曽根英四郎の兄であり、社中・海援隊を後援した豪商でもある。小曽根家には春嶽・勝・龍馬らの手紙が行李一杯に伝わっていたそうだが、残念なことにネズミに齧られたため、多くの手紙を焼却処分にしたと言う。
 明治四年、勅命により御璽・国璽を刻字し、外務卿伊達宗城の従って日清修好通商条規を浄書。三条実美の注文印を刻し、宮中で娘きくと月琴の演奏を行なった。また話は前後するが安政六年に外国人居留地小曽根町を長崎浪ノ平海岸に造成している。

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アーネスト・サトウ  イギリス出身。ロンドンはクランプトンに生まれる。ユニバーシティ・カレッジで学んだのち1862年に通訳生として横浜に着任。語学に長け日本語をサミュエル・ブラウンより学び、江戸弁や会津弁、候文の読む書きが出来るまでに上達する。幕末期には西郷吉之助・桂小五郎・後藤象二郎らとふかい交流をもった。龍馬とは慶応三年のイカルス号事件のさい、夕顔丸船中にて対面しているが、容疑者として土佐藩をみている都合上、その印象も頗るわるい。
 1869年には一旦帰国して名著『一外交官の見た明治維新』をまとめ1929年、故郷にて死去した。享年86歳。

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(平成某年某月某日識)

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