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坂本龍馬の目録

新選組・見廻組

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新選組・見廻組(一)


近藤勇  武蔵国多摩郡の農民宮川久太郎の三男として生まれ、天然理心流三代目宗家近藤周助に養子入り。文久三年、浪士組に参加して上京。清河八郎の主張に同意せず京に留まり会津藩御預の壬生浪士組を称する。八月一八日の政変からその存在を認められ武家伝奉より新選組の隊名を授かると横暴をかさねる芹沢派を粛正。新選組は完全な近藤体制に移項する。元治元年六月五日、新選組は旅籠池田屋を襲撃。集会に参加していた尊攘激派を壊滅させ禁門の変の引金ともなった。間接的にではあるが龍馬もこの事件の余波のため神戸海軍操練所閉鎖に追い込まれている。慶応三年、坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺の嫌疑が新選組にかかると近藤はキッパリとはこれを否定した。
 慶応四年、新政府との戦いに敗戦をかさね官軍に投降。新選組を龍馬と中岡暗殺の真犯人と睨む土佐派の「梟首せしめ、いささか天下の義士を慰め候よう」との主張もあって斬首に処された。

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伊東甲子太郎  常陸志筑藩郷目付鈴木専右衛門の長男。水戸で神道無念流、江戸で北心一刀流を修行。その腕をみこまれて師 伊東精一の遺言と門弟たちの推挙により養子入りして道場を継いだ。伊東道場はつねに六十人近い門弟が在籍していたと言われる。元治元年、藤堂平助の誘いを承諾。門弟を引き連れ新選組に参加。隊では参謀をつとめる。当初は新選組の勤王化を目的に入隊したとも言われるが内部からの改革に限界を感じ、薩長の内状探索を名目に仲間をつれ離隊。御陵衛士を拝命し、当時から呼ばれていたわけではないが通称を「高台寺党」と称される。この頃、伊東は藤堂と共に龍馬と中岡慎太郎を訪ね、新選組が両人の命を狙っている事を告げたが龍馬はこれを黙殺したという。
 そんな伊東自身、坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺の三日後、新選組の待ち伏せにあい油小路にて斬殺された。贈従五位。

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肖像無  伊予松山藩足軽原田長次の長男。安政三年頃、江戸松山藩邸で中間をつとめていたが後に帰郷し、再び江戸へ出、近藤勇らと知り合い浪士組に参加。新選組では副長助勤・十番組々長・七番組々長をつとめ結成以来の幹部として池田屋事件や三条制札事件、油小路事件などに活躍する。龍馬と中岡慎太郎が暗殺されると現場に残された鞘が原田の物であると高台寺党員が証言。刺客が斬りかかるさい「こなくそ」と伊予方面の方言を口走ったこともあって、その容疑者として疑われている。
 慶応四年、戊辰戦争では永倉新八と共に新選組を離れ、靖共隊に参加したが途中で離隊して彰義隊に参加。その後、上野戦争でうけた傷がもとで五月一七日、本所猿江町の神保山城守邸で死亡した。鑓は谷万太郎の門下で種田流鑓術を使う。

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肖像無  会津藩士佐々木源八の三男に生まれ、旗本佐々木矢太夫のもとへ養子入り。剣術は神道精武流を羽島源太に学び「小太刀をとっては日本一」と称えられたという(『戊辰物語』)。また鑓術の修行も行ったようだが、その流派については宝蔵院流や大内流など諸説が伝わりハッキリとせず、講武所の剣術師範役をつとめたとも言われるが当時の『武鑑』にその名は見えない。文久三年、浪士組に取締並出役として加わり上洛したが数ヶ月で江戸に帰府し、速水又四郎らと麻布一之橋で清河八郎を斬殺した。その後、元治元年に再び上洛し見廻組与頭勤方のち与頭に昇進、京都では実質的に見廻組を率いて活躍した。慶応三年、坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺の指揮をとったのも佐々木だと言われる。
 慶応四年、鳥羽伏見の戦いで負傷。その傷がもとで移動先の紀州にて死亡した。

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今井信郎  江戸出身。幕臣中間今井安五郎の長男として生まれる。剣術を榊原鍵吉に学び直心影流を修行。二十歳で免許皆伝を授かったといわれる。慶応二年、関東郡代岩鼻陣屋で剣術教授をつとめ、翌年には見廻組に参加。昇進して肝煎となっている。坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺では見張役をつとめただけだと刑部省の取り調べで語っているが後に龍馬を斬ったのは自分であると前言をひるがえしている。
 鳥羽伏見の戦いで敗走し、衝鋒隊副長として箱館まで転戦後、榎本武揚らと降伏。今井家に伝わる口伝よると西郷吉之助の助命嘆願もあって龍馬と中岡の暗殺に加わりながらも禁固刑ですんだ言う。明治五年に特赦放免、西南戦争で西郷軍に加わろうとしたが失敗し以後、自由民権運動に参加したりクリスチャンになるなどしながら余生をすごす。また楢崎龍から龍馬の十三回忌に招待されると病気を理由にこれを断ったとも伝わる。

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渡辺一郎  京都出身、渡辺時之進の長男。渡辺吉太郎とは別人。剣は大野応之助について西岡是心流、また別師のもとで円明流を学ぶ。他にも荻野流砲術・無辺流鑓術・日置流弓術・大坪流馬術などを修行している。元治元年の禁門の変では二条城の警護にあたり同年、京都文武場剣術世話心得となる。慶応三年、見廻組御雇七人扶持となり、肝煎介・肝煎と急速な出世をとげた。坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺にも関与し、父から贈られた刀「出羽大掾藤原国路」で龍馬を斬ったとのちに記している。
 慶応四年、鳥羽伏見の戦いで敗走。戦死した渡辺吉太郎と同一人物と見られたため名前を「一郎」から「篤」に改名。大正四年、龍馬を斬ったのは自分であると弟 渡辺安平や弟子の飯田常之助らに語り死去。

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(平成某年某月某日識)

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