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坂本龍馬の目録

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家族


坂本権平  土佐藩郷士坂本八平の長男。龍馬とは親子ほど年の差が離れた郷士坂本家四代目。古流砲術の腕は奥義に達し、高島流西洋砲術を徳弘考蔵に師事。こちらも奥義を授かるほどの腕を持つに至る。嘉永四年に郷士職を父から譲られ、安政三年の二月に家督を継ぐ。龍馬が脱藩するさいには、それを防ごうと何かと手をうったが龍馬は脱藩。その後、京都で龍馬と出会い、その志を理解してやるようになった。また龍馬に郷土刀「陸奥守吉行」(二尺二寸)を贈り、無銘の「了戒」(二尺三寸)の拝領を願われるなどしている。生涯に河原塚千野、大石直、福富仲と言った三人の妻をめとったが千野とのあいだに生まれた男子・富太郎が早世したため龍馬を養子に迎えようとしたこともある。龍馬がよく可愛がった姪・春猪の父であり、余談だが七歳の頃に御馭式で藩法を犯したためキツイおとがめを受けた経験がある。

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坂本乙女  土佐藩郷士坂本八平の三女。龍馬のすぐひとつ上の姉。身長五尺八寸、体重三十貫、顔いちめんに白あばたがあり、目は近眼、髪が薄く常にカツラをかぶっていたという。また剣術・馬術・弓術・水泳・一絃琴・三味線・謡曲などをこなす多芸多趣味の才女でもあった。母の死後は龍馬をよく育て、そして鍛えあげた。龍馬自身「おれは若い時、親と死別れてからはお乙女姉さんの世話になって成長ったので、親の恩より姉さんの恩が太い」と語り、脱藩後も多くの手紙を乙女に宛てて送っている。安政三年頃、典医岡上新輔と結婚したものの新輔の浮気や姑との対立などが絡み、慶応元年もしくは慶応三年一一月に離縁したと言う。
 龍馬没後、その妻・お龍を土佐へ引き取ったが非行に走るお龍に怒り、お龍は土佐を離れることになる。のちに「独」と改名し、壊血病で死去した。

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肖像無  土佐藩白札格郷士山本覚右衛門の二男として生まれ、坂本家の婿養子に入った郷士坂本家三代目。龍馬誕生時の年齢は三十代後半で当時の通称は長兵衛、八平は隠居後の称。弓術・鑓術は免許皆伝の腕前で和鉄砲にも長じ、鹿持雅澄について和歌や書を学ぶなど文においても優れた人物だったと伝えられる。妻・幸との間に権平、千鶴、栄、乙女、龍馬の二男三女をもうけ、幸が死去すると北代伊予と再婚した。mた藩の役目にも随分出精したらしく褒美米を贈られたり、褒詞を受けたり、吸物を頂戴したりするなどの記録が見られる。嘉永六年、龍馬の江戸行きにさいして「修行中心得大意」と題する訓戒状を授け、龍馬はこれを「お守り」として終生大切に保管して今なお現存する。龍馬帰郷後の安政二年一二月四日没。享年五十九歳。

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肖像無  土佐藩御用人北代平助の長女。夫の早世のため、生涯三人の男性のもとへ嫁いでいるが、すべて夫に先立たれている。薙刀をよく使い、躾には厳しいが慈悲と義理は大変深い聡明な人であったと伝わる。龍馬の父 坂本八平といつ頃になって再婚したのか正確な時期は解らず、龍馬の現存する多くの手紙にも伊予について触れた記述は一節もない。だが伝わるところによると龍馬は良くこの継母に懐き、北代家にも何度か手紙を送っていたらしく、同家へ顔を出しては龍太郎という伊予の弟の子(つまり義理の甥)を「龍太、龍太」と呼び可愛がっていたそうだ。また伊代の先の婚家川島家にも龍馬はよく出入りしたようで、川島家に伝わる世界地図を眺めている事が度々であったと言う。川島家の口伝によると伊予は龍馬に「男は強くて優しくないといかん」と教えていたらしい。慶応元年、六十二歳で没し、墓には神式の坂本家にあって唯一「現善妙了信女」との戒名が伝えられている。

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坂本栄  土佐藩郷士坂本八平の二女。同藩柴田作左衛門の妻。一説によれば文久二年、龍馬脱藩さいに刀を贈ったのは、この栄だとも言われるが龍馬の手紙に栄の名が登場することはない。しかも昭和六十三年に発見された栄のモノと見られる墓石によれば、弘化年間に死去した旨が刻まれており、刀を贈ったとする説を否定している。栄に関しては、ほとんど記録らしい記録もなく、伝わる所によれば柴田家に嫁いだものの子宝に恵まれず(なお他にも数種の異説がある)離縁され、「二夫に交えず」との理由から自害したという。

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肖像無  土佐藩郷士坂本八平の長女。高松順蔵の妻で高松太郎や坂本直寛の母。その順蔵との夫婦生活は大変円満なものであったと伝わる。当時、高松家で働いていた女中の話によると龍馬はブラリと姉の嫁ぎ先に遊びに来ては見晴らしの良い縁側で一日中ずっと海を眺めていると言うことがあったらしい。このような関係からも解る通り、龍馬はこの姉や義兄に良く懐いていたようで、伏見寺田屋との親しさを姉の乙女に伝えるさいに引合いとして高松家の名を出したりている。千鶴が順蔵の元に嫁いだ頃龍馬はまだ二、三歳と言う幼さであり、姉弟と言うよりは親子に近い間がらだったのだろう。龍馬の江戸修行中に「じぶんニきお付けんと、今ハきおつける人もないぞよ」と龍馬を気ずかった手紙を書き送っている。

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(平成某年某月某日識)

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