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坂本龍馬の目録

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朝廷


岩倉具視  前中納言堀川康親の二男として生まれ、天保九年に岩倉具康の養子に入る。岩倉家は下級の公家で生活は貧しく屋敷に博徒を招いては、そのテラ銭を生活費にあてるなどして飢えをしのいだと言う。嘉永六年、関白鷹司政通に接近し、考明天皇の侍従として朝廷内での発言権を得る。また幕府に対しての発言力を強めるため公武合体策を推進し和宮降嫁に尽力した。しかし、尊攘派の勢いが強まるにつれ、佐幕派と見なされれていた岩倉は失脚。岩倉村での隠遁生活に入る。その後、中岡慎太郎や龍馬を通じて諸藩の名士達と交流。討幕の密勅を降下させ王政復古の大号令を主導し、幕府の息の根を止める活躍みせる。
 維新後は使節団を率いて欧米諸国をまわり、帰国後は征韓論争で西郷吉之助らと対立。大久保と共に征韓論反対派を勝利に導いている。以後も要職を歴任。政府内におもきをなした。贈正一位。

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三条実美  右大臣三条実万の第四子として生まれ、母は土佐藩十一目藩主山内豊策の娘紀子。実美の父 実万は生粋の尊攘家で屋敷には多くの尊攘派志士たちが出入りし、実美自身も尊攘思想を持つ富田織部に教育されたため根っからの尊攘家として育つ。父が安政の大獄のため失意のうちに死去すると幕府への反感を強め、岩倉具視らが押し進める公武合体策を長州藩士や土佐藩士たちの活躍をもって封じ込めている。しかし、八月一八日の政変で失脚。長州へと落ち延びた。第一次長州征伐後は太宰府へ移り、王政復古を迎えるまでこの地で過ごす。その後、王政復古の推進のため、中岡慎太郎の主導と龍馬の協力で岩倉具視と和解した。
 維新後は名目上、政府の最高責任者をつとめ常に政権の上位に就いている。公爵。

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姉小路公知  左近衛権少将姉小路公前の長男。三条実美と並ぶ朝廷内尊攘派の筆頭。文久二年、公武合体策に反対し、三条実美を正使とする攘夷督促の副使をつとめ江戸へ赴く。文久三年、国事参政に就任、朝議決定に直接関与する地位を獲得、摂津海方面の海防を担当とする事となった。この時、勝海舟は開国論の必要性を姉小路に説き、龍馬は勝の使いで蒸汽機関の縮図・セバストポールの戦図・高野長英訳『撒兵答知機』などを献上している。この勝と龍馬の働きで姉小路は開国論に目覚めたと言われ、その豹変ぶりを見た武市半平太らに「姉小路卿は幕府に篭絡された」と嘆息さしめた。しかし同年五月二〇日、猿ヶ辻で何者かに襲われ奮戦、その賊を退かせたものの帰邸後ほどなく出血多量にて絶命。同月二五日、生前の功により参議・左近衛権中将に追贈された。贈正二位。

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戸田雅楽  山城国出身。若林陸奥介の三男として生まれ、秦家および山本家の養子となるも故あって離縁、最終的には三条家の家士戸田家の養子に入る。余談だが姉小路公知が何者かに暗殺されたさい、三条実美の外出にお供し戸田は機転をきかせ、三条実美の危機を救ったこともある。文久三年、八月一八日の政変で三条らが都を落ちするとこれに随行。側近として太宰府まで付き従った。慶応三年、三条の命で長崎におもむき佐々木三四郎の紹介で龍馬と知り合う。大政奉還の成否確認のため上京する龍馬に同行。途中、土佐へ立ち寄り、龍馬の実家・坂本家を共に訪れた。大政奉還後、京の酢屋にいて龍馬の意をくみ「新官政議定書」を作成。この案は龍馬から後藤象二郎を経て岩倉具視の手にわたり、王政復古後の職制案の原形となった。
 維新後は英国へ留学。帰国して法制局長官・貴族院議員などをつとめる。男爵。

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東久世通禧  公家東久世通徳の子として生まれる。安政六年に左少将にまで累進。その後、国事御用掛や国事参政をつとめたが文久三年八月一八日の政変で失脚し、三条実美らと都落ちして長州藩へ。禁門の変後は太宰府へと移る。慶応元年五月二三日に龍馬は太宰府を訪れ翌日に五卿、翌々日に東久世と三条に拝謁。薩長同盟の秘策を胸にする龍馬の意見を聞いた東久世は日記で「偉人ナリ、奇説家ナリ」と手放しで称賛している。
 王政復古により帰京して軍事参謀、外国事務総督、神奈川県知事などを歴任。岩倉使節団にも加わり帰国後、元老院副議員、枢密院副議長などをつとめた。伯爵。

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四条隆謌  公家四条隆生の二男。文久二年に侍従となる。文久三年、攘夷決行を建議し、朝廷内の尊攘派として活躍したが八月一八日の政変で失脚。三条実美や東久世通禧らと七卿の一人として長州へ。のちに太宰府へ移る。神戸海軍操練所時代の龍馬は操練所の惣督を朝廷からの選任にすべく、この案を当時攘夷監察使だった隆謌に提出しようと考えたが結局、実現することはできなかった。なお隆謌は慶応元年、薩長同盟実現のため太宰府に立ち寄った龍馬とも七卿の一人としても顔を会わせている。
 王政復古で官位を復し、帰京。戌辰戦争では征討大将軍錦旗奉行、中国四国追討総督、東征大総督府参謀、仙台追討総督などをつとめ維新後、陸軍中将、元老院議官などを歴任した。侯爵。

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(平成某年某月某日識)

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