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坂本龍馬の目録

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女性


楢崎龍  京都は青蓮院宮家で医師をつとめる楢崎将作の長女。父は安政の大獄に連座し入牢した経験もある勤王家で文久二年に病のため死去した。大黒柱をうしない一家落魄中の元治元年ごろ、母の貞と知りあった龍馬が一家の窮状をすくい、あわせて内輪ながらに龍馬と婚礼をむすぶ。同年、龍馬のはからいで寺田屋にあずけられたお龍は翌々年正月の寺田屋遭難において龍馬の危機をすくい、二人は西郷吉之助ら公けに結婚を披露する。同年には坂崎紫瀾が『汗血千里駒』でいうところの日本初の新婚旅行をたのしみ、以後お龍は長崎や下関に預けられ、そこで龍馬の死をしらされた。
 龍馬没後、いったん土佐へひきとられたお龍だが坂本家との不和がもとで妹君枝の婚家千屋家へとうつり、やがて帰京。ひととき龍馬の墓守などをしていたが明治六年ごろ東京へ上り、翌々年には西村松兵衛と再婚。晩年は妹光枝とむつんだ松兵衛と別居し、龍馬を偲びつつ死去した。墓碑には贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓ときざまれ、一部遺骨は龍馬のかたわらに葬られた。

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肖像無  千葉周作の姪にあたる千葉定吉の次女。本人の言によれば姉が一人いたらしいが幼い内に夭折したものらしい。はじめ名を乙女といい、北辰一刀流の長刀免許皆伝で「鬼小町」と呼ばれた。龍馬が江戸に出たばかりの頃は中目録の佐那に剣術でも歯がたたなかったという。龍馬の紹介するところに寄ると馬によく乗り、剣も手強く、長刀も出来、力は並々の男子より強く、顔形が平井加尾より少しよく、十三絃の琴をよくひき、絵も書き、心ばえ大丈夫にて男子など及ばず、至って静かな人と絶賛している。二人は婚を約したが龍馬は維新を見ずに没し、その紋服の片袖を「形見」として終生大切保管したという。
 維新後、学習院女子部に舎監として奉職。のちに千葉灸治院を開設し、灸で生計を立てながら暮らした。明治二九年に没し、その墓碑には「坂本龍馬室」の文字が刻まれている。

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肖像無  土佐藩郷士平井伝八の娘で平井収二郎の妹。才色兼備のほまれ高く、坂本乙女と一絃琴を習う稽古友達であったことから、龍馬とは幼馴染み。山内容堂の妹 友姫が三条家に嫁ぐさい付き人として京に上り、京で土佐勤王党関係者を何かと援助している。龍馬はそんな加尾に対して、ともに国事に奔走させようとしたのではないかと推測される手紙を出し、加尾はその準備を整えたが兄の収二郎から龍馬の誘いに乗らないよう、かたく諭されている。龍馬は収二郎の切腹を知ると「妹お加尾の歎きはいか計か」との気遣いをみせている。
 維新後、元土佐勤王党員の西山直次郎と結婚。西山家には龍馬の筆のかたわらに女性の筆跡で縫い付けられた「あらし山花にこころのとまるとも、馴しミ国の春な、わすれそ」という歌が残されており、御子孫が伝える所によると加尾は龍馬と結婚するつもりだったそうである。

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寺田屋登勢  大津で旅館を営む大本重兵衛の次女。弘化四年に伏見寺田屋六代目伊助のもとに嫁ぎ、放蕩者の伊助にかわり寺田屋を切り盛りした。文久二年の寺田屋騒動では落ち着きを払いながら、その処置にあたり薩摩九烈士たちを鄭重に弔っている。その縁から薩摩藩と親しく、薩摩の依頼で龍馬は寺田屋を常宿として利用するようになる。お登勢の娘・殿井力の証言によれば「坂本さんがそこにいらっしゃるということだけで、母は生き生きとして匂い立つように見えた」そうだ。龍馬はお登勢を「学問ある女、尤人物なり」と高く評価し「あちらからも大いに可愛がりくれ候」と家族に知らせている。また、寺田屋の御子孫によれば龍馬はお登勢のことを時々「おかあ」と家族のように親しげに呼んでいたという。

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大浦慶  長崎で油屋を営む大浦家の娘として生まれる。十七歳のときに店が大火のため焼け、その再興を期して翌年に幸次郎と言う番頭(肥後から蘭学修行に来ていた男との説もあり)と結婚。しかし、お慶自身が気に入らなかったのか結婚した翌日には早くもお慶の方から離縁を言い渡している。嘉永六年オランダ人・テキストルに依頼して日本茶の見本を海外へと送り、その三年後にはイギリス商人オールトから膨大な数の日本茶の注文を受けたため豪商へと伸し上がる。またお慶は長崎に来た志士たちへの援助を惜しまず龍馬ら海援隊とも交流を持ち、陸奥陽之助・大隈重信・松方正義らのパトロンであったともいう。
 維新後、一代で巨万の富を築いたお慶だったが熊本藩士・遠山一也に騙され、三千両もの借金を背負わされる事となり家財はしだいに急迫、借金を払い終えた明治十七年に死去した。

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武市富  土佐藩郷士島村源次郎の長女で武市半平太の妻。嘉永二年に武市家へ嫁ぐ。武市との間に子供を成す事は出来なかったが夫婦生活は大変円満で吉村虎太郎が周旋した下女にも武市は手をつける事はなかったと言う。龍馬は土佐勤王党の幹部として何度も武市家に足を向けたが、その度に門前で用を足すことから富は武市に「龍馬さんはいつもこれだから困る」と苦情を訴えたりしている。文久三年、武市が投獄されるや献身的なまでに牢獄へと差入を行ない、影から武市の牢獄生活を支えた。
 維新後、武市家の家録は没収されており家庭は貧困を極めたが富は養子をむかえ、半太と名付け武市家の跡を継がせた。その後、田中顕助らの尽力や武市への贈位により晩年は家族ともども幸せに暮らすことが出来たようである。満八十七歳で死去。

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(平成某年某月某日識/平成二十二年一月一日訂)

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