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坂本龍馬の目録

諸藩

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諸藩(一)


松平春嶽  御三卿田安斉匡の六男として生まれ、将軍徳川家慶の命により、福井藩主松平斉善の養子に入る。福井藩主の座を継ぐと中根雪江や橋本左内らを登用し、藩政改革にとりかかる。しかし、将軍継嗣問題では一橋派に属たため、大老井伊直弼から隠居謹慎を命じられた。文久二年の改革で政治総裁職に任命され復帰。徳川慶喜と幕政改革の主軸を担う事となった。この頃、龍馬は春嶽を訪ね、勝海舟らへの紹介状をもらい、のちに福井藩へは大政奉還の建白を進言している。また春嶽自身も龍馬の脱藩罪赦免など、何かと龍馬を気にかけてくれている。政治総裁職に就任した春嶽だが慶喜との対立や参与会議、四賢侯会議の瓦解などにより結局、幕府は事態を収拾できず政権を返上。春嶽は新政府と徳川家のあいだを奔走し、徳川存続に努力した。
 維新後は要職を歴任後退官。著述活動に余生をすごす。

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三岡八郎  福井藩の中級藩士三岡次郎の子。弘化四年に横井小楠が福井を訪れたさい、その思想に傾倒。安政五年、小楠が政治顧問に正式に就任するや財政改革を担当し、藩札の発行や生糸貿易で利潤をあげる積極財政を展開。みごと成功をおさめている。文久三年に小楠の紹介で龍馬と知り合い、以後、肝胆相照らす仲となった。その後、藩内抗争にまきこまれ、蟄居の身となったが慶応三年、龍馬は福井を訪れ、新政府の財政案を三岡と相談。のちに龍馬のはからいで新政府に加わり、戊辰戦争の戦費の捻出に奔走する。また五箇条の御誓文の草案を龍馬の船中八策を基盤に作成した。余談ながら龍馬は福井の離れるさいに自身の写真を三岡に贈り、三岡はそれを大切に懐中していたが龍馬暗殺の同時刻、偶然にも川へ落としてしまったという。
 維新後、東京府知事・元老院議官などの要職をつとめ経済官僚として活躍した。子爵。

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横井小楠  肥後藩士横井大平の二男。藩校時習館に学び、塾頭に任じられ、天保十年に江戸へ遊学。藤田東湖らと交遊し、尊王思想に目覚める。帰国して『時務策』を著述し、藩政を批判、実学党を組織する。しかし、やがて開国論に目覚めた小楠は実学党の内部と決裂。以後、藩外に活動の場を求め、福井藩主松平春嶽の政治顧問に就任、藩政・幕政改革に活躍した。この頃、龍馬と出会い強い影響をあたえ肥後に逼塞した小楠を何度か龍馬は訪ねている。しかし、薩長連合を構想する龍馬と長州を朝敵とみなす小楠は意見の対立から決裂し、小楠は「汝再び我を訪ねる事なかれ」と絶交を言い渡したともいわれるが、以後も龍馬は小楠を高く評価し「天下之人物」の一人として「新官制擬定書」にも、その名をあげている。
 明治二年、新政府に出仕したが攘夷派志士らによって暗殺された。贈正三位。

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清河八郎  出羽国庄内藩の豪農・郷士斎藤治兵衛の長男。弘化四年に江戸へ遊学し、学問を積む傍ら剣術を北辰一刀流は玄武館で修行。通常三年かかるといわれる目録をわずか一年で拾得している。龍馬と清河の交流を明確に記した資料は現存しないが山岡鉄太郎と交流があった人物を列挙した『尊攘遺墨』には清河と龍馬の名が見え、清河の記した『玄武館出席大概』にも龍馬の名がみえる。万延元年、島津久光上洛の報に接っするや挙兵討幕を計画するも寺田屋騒動のため失敗に終った。清河はつぎに山岡をつうじて将軍警護と称し、浪士組の結成を幕府に提案。幕府もこれを了承し、勝海舟からこの話を聞いた龍馬らは清河の本心を見抜き「幕も大きに勢無之き事知るべし」と高松太郎は『雄魂姓名録』に記している。その後、上洛した清河だったが浪士組は近藤勇らのために分裂し、江戸に戻ったところを佐々木只三郎らに暗殺された。贈正四位。

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肖像無  千葉周作の実弟 千葉定吉の長男。幼少より北辰一刀流を父 定吉から学び、その使い手として著名であったと伝わる。龍馬とは江戸へ剣術修行のためやって来た嘉永六年に知り合い、龍馬は以後、千葉家一門と親しく交流をかさねることになる。万延元年から鳥取藩に剣術師範として仕え、文久二年には周旋方の役に就く。そんな役目がらか重太郎の周旋で多くの鳥取藩士が勝海舟や龍馬のもと、神戸海軍操練所へ入門している。龍馬が土佐藩から七日間の謹慎を命じられたさい、その内状を知らない重太郎は武市半平太らの讒言によるものと睨み、龍馬の身を案じ、福井藩にその救命を嘆願するなど厚い友情を示している。
 戊辰戦争には辰ノ口歩兵頭として参戦。維新後は開拓使や京都府などの官使をつとめる。余談だが生年は父 定吉の没年との関係上、天保四年説もある。贈正五位。

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肖像無  十津川郷士中井秀助の三男。居合の達人で文久三年に多くの志士と交流、天誅組の挙兵には、その鎮撫に鎮撫使と共に随行。また新選組との因縁が深く元治元年、町中で池田屋事件の帰路途中の新選組とにらみ合いになり、のちに別の場で新選組隊士二名を斬ったと言う。慶応元年、土佐藩の片岡源馬と上京、翌年には四条大橋で新選組の沖田総司、永倉新八、斎藤一らと戦闘におよぶも脱出。龍馬からは無銘だが「青江吉次」と鑑定された刀を贈られ、本人も「僕は坂本氏の為めなら何時でも一命を捨てる」と周囲に語っていたと言う。中井はその言の通り慶応三年一二月七日、海陸援隊士らと龍馬・中岡慎太郎の仇討ちのため天満屋へまっ先に斬り込みをかけ、斎藤一ら新選組隊士十名と激闘を展開、愛刀が鍔元一尺付近で折れたため討死して果てている。その無銘の刀には「中井庄五郎義高」との銘が刻まれていたが、これは龍馬から贈られた刀だったのだろうか。贈従五位。

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(平成某年某月某日識)

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