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坂本龍馬の目録

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長州藩(一)


桂小五郎  長州藩の医師和田昌景の二男として生まれ、隣家の桂九郎兵衛の養子に入り、その家督継ぐ。藩校明倫館で吉田松陰と出会い、嘉永五年に江戸へ遊学。斉藤弥九郎の練兵館に入門、塾頭に任じられるほどの腕をもつ。また、江川英龍のもとで蘭学や砲術の修行にも励み、諸藩の志士たちと交流をかさねた。文久二年、京で藩政の中枢に参加。しかし、八月一八日の政変で長州藩は政界からの撤退を余儀なくされてしまう。だが桂は京に潜伏しながら裏工作につとめ、池田屋事件では運良く難まぬがれた。禁門の変にも参加し、この頃ついたアダ名が「逃げの小五郎」である。慶応二年、龍馬・中岡慎太郎の仲介で仇敵薩摩と薩長同盟を結び以後は討幕挙兵に向けて活躍した。
 維新にあたって多くの政策に参画し、西郷吉之助・大久保一蔵と「維新の三傑」と称えられる。贈従一位。

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高杉晋作  長州藩上士高杉小忠太の長男。嘉永六年、藩校明倫館に学び、もっぱら剣術に力を入れ、のちに柳生新陰流免許皆伝を授かるに至る。安政四年、久坂玄瑞の誘いで松下村塾に入門。吉田松蔭から多大な影響をうけ久坂とならび「松門の双璧」と称えられた。文久元年、上海に渡航、強烈な攘夷思想を持つに至る。帰国後は独断でオランダ船を購入し、同志達と英国公使館の焼き討ちを行なうなど雷電如き行動力を見せる。元治元年、奇兵隊の起こした事件の責任をとって謹慎中だった高杉は四カ国連合艦隊との講和ため家老の養子として交渉にあたり、これを成功させ、同年一二月のクーデターでは俗論党打壊を成功させている。慶応二年の四境戦争で龍馬ら社中もこれに参戦、高杉は大村益次郎と共に類い稀なる軍略の才をもちい、みごと長州を勝利に導いたが翌年、肺結核の悪化ためその生涯を閉じる。贈正四位。

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久坂玄瑞  長州藩の医師久坂良迪の二男。九州遊歴後、吉田松陰の松下村塾に入門。その人物・学識の高さから松陰をして「防長第一流人物」と称えられた。また松門塾四天王の筆頭にあげられ、松陰の妹を妻としてむかえている。師 吉田松陰が安政の大獄で斬首されると志士としての活動を本格的に開始。長州尊攘派の旗頭をつとめるようになっていく。龍馬も文久二年に武市半平太の書簡を携え来訪、龍馬の脱藩に少なからず、その影響を与えた。公武合体策を主張する長井雅楽の弾劾を成功させ、長州の藩論を「尊王攘夷」に転換。京都での活動を開始する。一時は朝廷の実権を長州派公卿に握らせるまでに至るが八月一八日の政変で都落ちを余儀なくされ、降りしきる雨の中、朗々と詩を吟じながら長州への帰途についた。元治元年、池田屋事件を機に来島又兵衛らと京都へ進発。激しい戦いの末、長州軍は敗れ久坂もまた、鷹司邸で寺島忠三郎と自刃した。贈正四位。

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伊藤俊輔  長州藩農民林十蔵の子として生まれ、父が足軽の家に養子入りしたため本人もまた足軽の身分を得る。若党奉公ののち来原良蔵の紹介で松下村塾に入門。吉田松陰は伊藤に対して「なかなかの周旋家になりそうなり」との評を残している。文久二年、高杉晋作らと共に英国公使館焼き討ちに参加、学者・塙次郎の暗殺にも加わっている。翌年には井上聞多と英国に留学したものの、馬関戦争が勃発するや急遽帰国、講和にさいして高杉晋作の補佐にあたった。薩長連合では井上と共に長崎で亀山社中の周旋により武器を購入している。
 維新後は要職を歴任し、岩倉使節団にも随行。明治二十二年に「大日本帝国憲法」制定に心血をそそぎ当時、欧米列強からアジアでは不可能と見られた立憲政治を日本に確立させた。しかし、明治四十二年、ハルビンにおいて暗殺された。公爵。

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井上聞多  長州藩士井上五郎の二男、安政二年に志道慎平の養子に入る。江戸に遊学後、藩主毛利敬親の小姓役をつとめ「聞多」の名を敬親から賜る。文久二年、高杉晋作らと英国公使館焼き討ちに参加。のち伊藤俊輔らと英国へ渡航をするも馬関戦争の報にせっするや急遽帰国し、高杉・伊藤らと講和活動のため奔走している。元治元年、俗論党の刺客に襲われ重傷をおったものの京都の芸妓・妹尾から贈られた「鏡」のおかげで致命傷をまぬがれ、一命を取りとめる。慶応元年、薩長同盟においては伊藤ともない長崎をたずね、社中の周旋により銃器を購入、近藤長次郎との間にユニオン号の取り扱いについて「桜島丸条約」を結んだ。
 維新後、要職を歴任し、鹿鳴館などに代表される欧化政策を積極的に推進。政商三井と癒着するなど西郷吉之助から「三井の番頭」などと揶揄されたりもしている。侯爵。

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広沢兵助  長州藩士柏村安利の四男。のちに波多野家の婿養子に入り、藩命にて広沢姓を名のる。嘉永六年、黒船来航にともない江戸に出張、黒森台場の警護にあたった。安政六年、藩政に参加し、腕利きの実務派官僚として活躍するも禁門の変以後、俗論党が藩内の政権を握ると野山獄に投獄されたが、まもなく高杉晋作の挙兵が成功するにおよび再び藩政に復帰する。慶応元年には薩長同盟に関係した兵糧米の提出について龍馬と会見を行い、翌年には龍馬の誘いで薩摩の五代才助と「商社示談箇条書」を作成している。同年の四境戦争では休戦協定を勝海舟と結び、また桂小五郎と共に薩摩と討幕出兵の条約を結んだ。
 明治二年、維新後の賞典録において桂や大久保一蔵と並ぶ一八〇〇石の恩賞を得るほどの活躍をみせたが明治五年に不平士族らによって暗殺される。贈従二位。

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(平成某年某月某日識)

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