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坂本龍馬の目録

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海援隊(一)


陸奥陽之助  藩政に関わる大身の出ながら父の失脚により国をはなれ江戸の安井息軒・水本成美らに学ぶ。文久二(1862)年に上京し同年ないし翌年に龍馬の知遇を得る。文久三年十月には兄伊達五郎の手引きで神戸海軍操練所に入るも翌年には閉鎖。長崎で社中に合流し、のちに伏見寺田屋で遭難した龍馬を見舞っている。海援隊では商取引に関わることが多く「商法の愚案」と題する商事意見書を作成。龍馬が陸奥を評価していたエピソードは多い。
 慶応三年十二月七日(1868.1.1)、龍馬暗殺を和歌山藩三浦休太郎らの陰謀とにらみ同志らと天満屋へ斬り込みをかけた。戊辰の動乱期には伊藤俊輔らと外交方面に活動し明治以降は藩閥政府に対決姿勢をとって立志社の政府転覆計画に加担し禁獄。出獄後、欧州へ留学し帰国後は公使・大臣などの要職を歴任。特に治外法権撤廃・三国干渉など外務大臣としての活躍は著名。肺結核により東京は西ヶ原の自邸にて没する。

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長岡謙吉  龍馬とは坂本八平が後妻伊予(龍馬からみれば継母)を通じての親類にあたる。土佐では河田小龍・奥宮慥斎、大坂では春日簡平に医学・詩文などを学ぶ。安政六(1859)年、土佐を脱して長崎へわたり二宮敬作について学ぶも、在崎中の岩崎弥太郎らに藩の商取引を妨害したという嫌疑をかけられ、国抜けの罪をもって送還された。妻に医家の娘窪添琴をめとり一女をもうけたのちの慶応元(1865)年、再び藩を脱し海援隊に参加。隊では龍馬の秘書官的な役割をつとめ、『閑愁録』・『和英通韻以呂波便覧』の出版、「海援隊約規」・「大政奉還建白書」など重要文書の起草に関与。『藩論』の事実上の執筆者ではないかとする説もある。
 龍馬没後、戊辰戦争では高松藩の恭順工作、讃岐国塩飽諸島の鎮撫に活躍。新政府へ海軍創設に関する建白をおこない、土佐藩から二代目海援隊々長にも任じられた。その隊解散後、新政府に出仕するも東京で病没。

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近藤長次郎  高知城下で餅菓子業をいとなむ商家に生まれる。土佐では河田小龍・甲藤市三郎・岩崎弥太郎らに学び、安政六(1859)年一月には由比猪内の下僕として江戸へ遊学、安積艮斎に師事した。やがて両親の死去により一旦の帰国後、万延元(1860)年春に再度江戸へ出、手塚玄海・高島秋帆らに学ぶ。その明確な時期は不明だが藩から苗字帯刀を許された。文久二(1862)年、勝海舟の門下に龍馬と相前後して入ったとみられ、以後同志として行動。翌年、佐藤与之助の仲人で大和屋徳と結婚した。勝塾閉鎖後の薩長提携運動では銃船購入の実務をこなし、井上聞多と桜島丸条約を締結。このころ高杉晋作は長次郎の印象を「頗る才子の様に思われ候」と伝えている。慶応二(1866)年、経緯に諸説あり正確なところは不透明だが無断で英国留学を志したことが同志らに背信行為と見なされたため切腹。龍馬は彼の死を「オレが居ったら殺しはせぬじゃった」と惜しんだ。

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肖像無  剣術を龍馬とおなじ日根野弁治、学問を岩崎弥太郎に学ぶ。万延元(1860)年の末に江戸へ出て安井息軒に入門。同地で諸藩の志士と交流し武市半平太の土佐勤王党結成にも加わった。文久三(1863)年、土佐藩の不安定な動向および長州藩の攘夷実行に触発されてか藩命の途次に拘らず脱藩。下関での外国船砲撃、大和国での天誅組挙兵にとあいついで戦地に身をおいた。その天誅組の壊滅にさいしては石田英吉らと主将中山忠光を護衛して諸藩の包囲網から脱出。翌年の禁門の変には忠勇隊に属し戦った。慶応二(1866)年、薩長の盟約にさいし上京する龍馬らと行をともにし、その後は社中にも参加。同年ワイルウェフ号を薩摩へ回航する途中、暴風雨のため肥前国の五島潮谷崎の海中に没した。自宅が坂本家と近在の故もあってか、坂本乙女・内蔵太妻・同母をまじえ親しく、龍馬から池家に直接宛てた書簡や龍馬が弟分として目を掛けている様が伝わる。

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沢村惣之丞  学問を間崎哲馬に師事。文久二(1862)年、藩提出時の名簿からは除かれたが土佐勤王党に加盟。吉村虎太郎らと国を抜け長州へむかったが、情勢を武市半平太に報告するため一旦帰国。再度土佐を離れるにあたり龍馬も同行し脱藩した。のち下関で龍馬とわかれ上京、公家の河鰭家に仕えた。翌年、龍馬の紹介で勝海舟の門へ入ったとされ、社中・海援隊にも参加。隊内では語学・数学・測量学などにすぐれ、大久保一蔵は蘭学者としての沢村を「人物いたって面白」しと伝えている。
 慶応三(1867)年の龍馬没後、仇討ちのため海陸援隊士らと天満屋への斬り込みに参加。翌年には長崎奉行所平定にも出動し、このさい酒気をおびて抜刀した薩摩藩士を射殺。これによる土佐と薩摩の関係悪化を懸念して切腹。生前、脱藩時や数度の江戸下向など龍馬とは同行動をとることも多く、大久保一翁からは龍馬とともに「大道を解すべき人」との評価をうけている。

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中島作太郎  事情は不明だが新居村で中島与一郎の父曾平(作太郎からみると伯父)によって養育される。元治元(1864)年、与一郎や同志細木元太郎らと国抜けをはかるも途中与一郎が捕手に囲まれて自刃、二人で長州に至った。ここで三条実美らの警護にあたっていた土佐の脱藩の同志らと合流し以後しばらくは元太郎との同行動が多かったとされる。慶応三(1867)年一月、龍馬の書簡中にその名前がみえ社中・海援隊では若年ながら商取引やいろは丸事件の交渉にも関わって活躍。
 龍馬死後、彼が志を「いささか継ぎ申し度」との決心をかため、龍馬形見の洋服を縫いあげ天満屋への斬り込みに参加したとも、無益な仇討ちには反対したとも伝わる。維新後は自由民権運動やキリスト教への入信など革新寄りの政治家として活動し諸役を歴任。妻は海援隊での同志陸奥陽之助の妹初穂を前妻とし、のち女性解放運動家岸田俊子を後妻に迎えた。神奈川県大磯にて病没。

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(平成某年某月某日識/平成二八年一二月三一日改訂)

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主要参考資料
龍馬の手紙 講談社学術文庫宮地佐一郎講談社
海援隊遺文 坂本龍馬と長岡謙吉山田一郎新潮社
坂本龍馬 海援隊始末記 中公文庫平尾道雄中央公論新社
坂本龍馬 海援隊士列伝山田一郎,他新人物往来社
坂本龍馬事典小西四郎,江藤文夫,宮地佐一郎,山本大,広谷喜十郎新人物往来社
幕末維新人名事典宮崎十三八,安岡昭男新人物往来社
龍馬が愛した下関一坂太郎新人物往来社
坂本龍馬大事典 コンパクト版新人物往来社新人物往来社
陸奥宗光 PHP文庫 上下巻岡崎久彦PHP研究所
近藤長次郎 龍馬の影を生きた男吉村淑甫毎日新聞
明治維新人名辞典日本歴史学会吉川弘文館
海援隊秘記 1867年長崎。龍馬と弥太郎が歴史を変える織田毅戎光祥出版
高知県人名事典 新版『高知県人名事典新版』刊行委員会高知新聞社企業
坂本龍馬全集 増補四訂版宮地佐一郎,平尾道雄光風社出版
陸奥宗光坂崎斌博文館

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