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坂本龍馬の目録

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海援隊(四)


山本龍二  福井藩陪臣山本五左衛門の二男。藩校明道館に学び、同館の幹事をつとめていた橋本左内に認められ幹事局の手伝をつとめる。のちに江戸は昌平黌で諸生寮の舎長をつとめ、開鎖の論が盛んな文久のころより単純な攘夷論に疑問を抱き脱藩、京都や江戸に奔走した。慶応二年、神戸の勝海舟塾で面識のあった龍馬を長崎にたずね、自己の意見書を提出。龍馬から「徹頭徹尾、我と同意見なり」との評価をうけたらしく以後、龍馬に兄仕するとともに社中・海援隊に参加した。同年の七月には龍馬の承諾をえて英国へ渡航するも、途中暴風雨に遭遇しシンガポールへ漂着。土民らの襲撃をうけたが刀を振るって奮戦し、通りかかった通行艦に救助され長崎へと帰着した。
 慶応四年、長崎から京都へのぼるも同藩の三岡八郎らと対立し、明治三年には旧主本多家の華族加列問題に連座して投獄。のちに許され大阪府権判事や山形県知事などを歴任した。男爵。

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肖像無  越後の出身とも讃岐塩飽諸島の出身とも伝わる海援隊士。はじめ幕府艦翔鶴丸・黒龍丸の船員をつとめ、その縁で龍馬との面識をえる。楢崎龍の伝えるところによると、かなりの大酒呑だったらしく酒場でおこしたケンカが元で幕府艦から脱走、社中・海援隊に参加した。橋本は航海術に長け、大波にあおられる船上においても平然と部下たちに指事号令を下し、龍馬からも「橋本の仕事は実に潔い」と喜ばれている。慶応二年にはユニオン号の水夫長をつとめたが、竹中与三郎らに買収され、龍馬に関する情報を幕府に流してしまうなど間者じみた行動もみせている。その後、社中・海援隊から離隊することも、させられることもなく在籍し、いろは丸には運用方として、横笛丸には士官として乗り組み活躍した。
 維新後の消息は詳らかでないがお龍と東京高輪で偶然出会い、よくその面倒をみたという。

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肖像無  神戸に隣接する小村二茶屋村の出身で、「鳴尾屋」を称し薬種業(茶商とも)をいとなむ海援隊士。神戸海軍勝海舟塾時代から龍馬との交流が生まれ、その閉鎖後も交友をつづけた。慶応二年一月、龍馬が薩長提携運動のため上京したさい、幕府の間者として龍馬に近づき、買収した橋本久太夫からえた情報を幕府へと報告、寺田屋襲撃後も龍馬の動静を報知するため薩摩まで同行しようとしたことが確認できる。その後、龍馬に感化されたのか金銭面で社中・海援隊を援助するようになり、太極丸の購入時には買主として名をつらねている。
 龍馬没後、その仇討のため自ら天満屋への斬り込みを志願し、これに参加。手首を斬り落とされ、股部にも傷をおうなど満身創痍になりながらも奮戦した。のちの消息についてイマイチ詳らかでないが維新後、ともに天満屋へ斬り込んだ同志・加納宗七の事業を後援した旨が伝わっている。

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肖像無  鳥取藩出身。剣術を同藩の指南役だった北辰一刀流 千葉重太郎に学ぶ。龍馬との交友が史料上から確認できるのは『海舟日記』の文久三年二月からで、これは重太郎の紹介によるものと思われる。文久三年の一月九日には勝海舟のもとへ入門した鳥取藩士たちを数名確認できることから、おそらくこの時に両者も顔を会わせたのではないだろうか。黒木はよく剣術に長じ、龍馬は家族にあてた書簡中「千葉重太郎の門人にて真剣勝負之時、平日之稽古と違わず、人是をおどろく」と感心したさまを伝えている。元治元年、佐藤与之助の書簡によれば勝塾の閉鎖後、すぐさま白峰駿馬と共に龍馬らに合流したらしいが、この事から今まで疑問視されいた「早川二郎」なる変名は黒木小太郎本人のモノと断定してもよいだろう。慶応二年、社中からワイルウェフ号に船長として乗り込み、ユニオン号に曳航され鹿児島へ向かったが途中暴風雨に見舞われ、船や同志らと海中に没した。

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山本復輔  土佐出身。いつごろ龍馬らと合流したのかは判然としないが、社中が設立された直後早々に参加していたものと推測される。史料では慶応二年の伊東九三宛の書翰に初めてその名を確認することができ、当時は下関で商事に携わっていたものと思われる。のち陸奥陽之助や高松太郎らと大坂において隊の商事をいとなみ、中岡慎太郎の日記にもその名を何度か散見することができる。
 慶応三年一二月、下関で龍馬暗殺の報を知った山本は、これを直ぐさま長府藩の熊野直介へと報知し、石田英吉や中島作太郎らと楢崎龍を一旦長崎へと下らせている。慶応四年、長崎奉行所の占拠に他の海援隊士らと参加後、吉井源馬と天草島富岡の鎮撫へ出動。砲声を聞くことなく、これを平定することになった。のち箱館で旧幕府軍との戦いに参加、維新後は大坂で医業を営んでいたと伝わるも資料から開拓使へ出仕した形跡もみうけられる。

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島村要  土佐藩足軽島本信平の長男。慶応二年、藩命によって京都藩邸詰となった翌年、龍馬らの海援隊に参加したと伝わる。おそらく宮地彦三郎とほぼ同時期に入隊したものと思われるが後年、高知県に提出した「土岐真金履歴書」によると龍馬・中岡慎太郎暗殺のさい、福岡藤次から事件を知らされた島村は岡本健三郎と共に近江屋へ駆けつけ、絶命前の慎太郎から遺言を聞き、これを田中顕助に伝えたという
 慶応四年、海援隊の長岡謙吉らと讃岐塩飽諸島の鎮撫に活躍し、島民たちから「活き仏さま」と称えられ、島村要の「島」の字と八木彦三郎(宮地彦三郎)の「八」の字を取りあわせ命名された「八島神社」が現存する。維新後、軍務局に出仕し土佐へ帰国。高知県において陶工業をいとなみ、陶工振興に尽力した。

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(平成某年某月某日識)

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