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坂本龍馬の目録

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幕府


勝海舟  小普請無役勝小吉の長男。親戚筋には男谷精一郎がおり父の小吉も剣術をよく使ったためその縁で島田虎之助の門で直心影流を修行、免許皆伝を得ている。蘭学や兵学にも明るく、のちに龍馬は姉の乙女に「天下無二の軍学者」と勝を紹介している。安政二年、仕官がかない蕃書翻訳御用をつとめたのち、長崎海軍伝習所に監督として仕える。万延元年には咸隣丸の事実上の艦長として大平洋横断を成功させた。文久二年、龍馬を弟子としてむかえ、多忙な日々のなか「たびたびあって話した者は坂本だけだった」と称されるほど龍馬を常に傍らへとおき、多くの知識と多くの人物たちとの縁を龍馬にあたえている。操練所が閉鎖されると一時、閑居の身となったが、再び復帰して西郷吉之助とのあいだに江戸場無血開城を実現させた。
 維新後、海軍卿兼参議・元老院議官などの要職を歴任したが早くして職を辞す。伯爵。

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大久保一翁  旗本大久保忠向の子。黒舟来航後、時の老中阿部正弘によって目付へ登用され海防掛を担当し以後要職を歴任。また勝海舟の意見書を阿部に推薦し、勝が幕政に参加する切っ掛けをつくった。安政の大獄では志士たちの捕縛あたった部下の横暴に怒り、これを罰すると逆に伊井直弼から罷免されている。復帰後も再び要職をつとめ、幕府内において逸早く公議政体論と大政奉還を主張。龍馬・勝・松平春嶽などに多大な影響を与えた。慶応二年、龍馬が薩長同盟のため上京したさい、幕使の警戒が厳重な旨を忠告してくれている。その龍馬も一翁にふかく心酔したようで「天下之人物」の一人として兄 権平に一翁のことを手紙で紹介している。慶応四年、幕府の最後をかざる江戸城無血開城では勝をよく補佐し、徳川幕府の幕引きをおこなった。
 維新後、徳川家存続に力を尽くし、東京府知事・元老院議官などをつとめた。子爵。

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永井尚志  三河国奥殿藩主松平主水正の二男として生まれ、旗本永井尚徳の養子に入る。嘉永六年、目付に登用され翌年には長崎海軍伝習所の総監理をつとめた。外国奉行にも任じられ通商条約を英・仏・露と結び、軍艦奉行に就任したが将軍継嗣問題で一橋派に属したため免職。文久二年に復帰し、京都町奉行を拝命。取り調べ中、薩摩藩の田中新兵衛に切腹されるといったアクシデントに見舞われている。慶応三年、福岡藤次の計らいにより龍馬と知り合い、大政奉還について交流を重ね、互いにもよく気があったらしく龍馬は手紙で「ヒタ同心」の人と林謙三に紹介している。
 同年一二月の鳥羽伏見戦後、箱館まで転戦し、自殺を図ろうとする榎本武揚に降伏をすすめた。のちに一旦は投獄されたが明治五年に特赦され、新政府に出仕して開拓御用掛・左院少議官・元老院大書記官などをつとめる。

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徳川慶喜  水戸藩主徳川斉昭の七男。幼少時は斉昭の意向により水戸の藩校弘道館で学問を学び、英明の誉れ高く将軍徳川家慶の命で一橋家を相続した。嘉永六年、家慶が死去、あとを継いだ家定には世子の望みがなかったため、慶喜をおす一橋派と徳川家茂をおす南紀派の間に将軍継嗣問題が勃発。結局、井伊直弼の活躍により南紀派が勝利した。そのため慶喜は一旦、蟄居の身となったがのちに政界に復帰、将軍後継職に就任する。以後、幕政改革を断行するが慶応二年、第二次長州征伐中に将軍家茂が死去したため十五代将軍の座に就き、フランスの援助を得て再び改革に乗り出したものの土佐藩の建白を入れ政権を朝廷に返上。しかし、王政復古の大号令や薩摩藩の江戸かく乱にのせられて鳥羽伏見の戦いが勃発。敗報に接し、大坂城から兵を残したまま江戸へと退却、寛永寺に引きこもった。
 維新後は政治に直接かかわることなく趣味にうち込む余生をおくっている。公爵。

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山岡鉄太郎  幕府蔵奉行小野朝右衛門の五男。剣術をはじめ久須美関適斎に真影流を学び、のち井上八郎および玄武館で北辰一刀流を修行「鬼鉄」とアダ名され幕府の講武所に剣術世話心得として出仕した。また鑓術を山岡静山に学び、その山岡家の入婿として以後、山岡姓を名のるようになる。安政六年頃に清河八郎らと尊王攘夷党を結成、一説には龍馬もこれに参加したと言われるが確証はない。だが鉄太郎の記した『尊攘遺墨』に龍馬の名も見られることから二人の間に交流があったことは間違いないだろう。文久二年、浪士組取扱役を拝命し上洛、江戸帰還の命をうけ帰府後、中西派一刀流 浅利義明と出会い、のちに中西派一刀流および小野派一刀流の正統後継者となる。
 慶応四年、勝海舟の使者として官軍側の西郷吉之助と直談判におよび江戸城無血開城に大きな功績を残し、維新後は明治天皇の侍従となって明治二十一年、大往生をとげた。子爵。

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肖像無  大坂町奉行や勘定奉行をつとめた一二〇〇石取りの幕臣。文久二年に目付に登用され翌年、大坂町奉行に就任。勝海舟らと神戸操練所にて海軍造艦所御取建御用および摂海防御向き御用を仰せ付けられた。この神戸出張により龍馬との交流が生まれたようで勘太郎は七月八日付の勝海舟宛の手紙において龍馬と時勢について語りあった旨を伝えている。後年、龍馬が薩長同盟締結のため寺田屋に入ったおり、探索の厳しさを心配する家人に対して龍馬は大坂町奉行をつとめていた勘太郎と事前に「応接」した来た事を伝え、家人を安心させようとしている。なお慶応三年には大目付に登用された。
 慶応四年、鳥羽伏見の戦いに参加、敗走して徳川慶喜と共に東帰し、勘定奉行をつとめたが三月には免職され、明治になってからの動向はイマイチ不明。しかしながら勝に対して龍馬暗殺の下手人は今井信郎であると言う情報を伝えている。

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(平成某年某月某日識)

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