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坂本龍馬の目録

土佐藩

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土佐藩(一)


中岡慎太郎  土佐藩大庄屋中岡小伝次の長男。幼少時より衆に優れ「偉うなる人は子供の頃から異うちょった」と伝わる。学を間崎哲馬、剣術を武市半平太に師事し、はやくから土佐勤王党に加盟。文久二年には五十人組の伍長として江戸へ向かい、到着後は佐久間象山招聘の命をうけている。文久三年、土佐勤王党への弾圧が始まるとそれを逃れて脱藩。長州に身をよせ、禁門の変では忠勇隊にくわわり長州軍の一員として奮戦した。以後、薩長同盟のため東奔西走。龍馬と共に同盟を成功に導く。また三条実美と岩倉具視の和解や薩土密約などを斡旋主導。土佐藩から脱藩罪を許されてのち陸援隊の隊長に任じられるも慶応三年一一月一五日、龍馬と共に近江屋にて刺客に襲われ二日後に絶命した。それを聞いた岩倉は「噫、何者の鬼怪が麿の一臂を奪うてしもうたか」と落涙したという。龍馬は中岡について意見の相違を越えた信頼をよせている。贈正四位。

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武市半平太  土佐藩白札郷士武市半右衛門の長男。龍馬とは「アザ・アギ」「坂本の法螺・武市の窮屈」と応じる仲で遠い親戚にもあたる。剣術を千頭伝四郎・麻田勘七について学び安政四年、江戸の鏡新明智流士学館の塾監に任じられている。文久二年、江戸で土佐勤王党を結成し、その呼びかけには約二百人の人々が名をつらねた。武市は挙藩勤王を目標として参政吉田東洋を暗殺し、江戸参勤の途上、藩論を尊王路線へと引き込み京都での勤王活動を開始する。京では武市らの手腕により土佐藩は勤王三藩の一つに数えられ朝廷からも重要視された。八月一八日の政変で尊攘派が京から追い落とされると土佐勤王党を心よく思わない山内容堂の弾圧が本格化。武市は捕縛され、暗殺をくり返した岡田以蔵らの自白も手伝い、切腹を命じられる。その切腹は腹を三文字にかっ斬る見事なものであったという。余談だが久坂玄瑞は「当世第一の人物、西郷吉之助の上にあり」と武市を評している。贈正四位。

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吉村虎太郎  土佐藩庄屋吉村太平の長男。学問を楠山庄助・間崎哲馬に学び文久二年、土佐勤王党に加盟。翌年、武市半平太の命をうけ、長州へむかい久坂玄瑞と知りあう。ここで久坂の草莽論に感化され一旦の帰国後、土佐の藩論が定まらないことに失望し脱藩。このさい立ち寄った長浜の冨屋金兵衛宅には「両友此度罷越候間萬事宜しく」と書かれた龍馬の脱藩を示唆するような手紙が残されている。その後、京に上った吉村は寺田屋騒動に連座したため船牢にて土佐へ帰国。勤王党の活躍で大赦をむかえると三年間の国暇で上京。この頃は龍馬との関係で勝塾にも何度か顔を出していたらしい。文久三年八月、大和行幸の先駆けとして天誅組の首領格をつとめるも、八月一八日の政変で天誅組は孤立。幕軍との戦いのなか「残念」の一言とともに大和路の露ときえた。贈正四位。

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岡田以蔵  土佐藩郷士岡田義平の長男として生まれる。剣術を武市半平太に師事し、その腕を高く評価されたであろうことは武市の記す書翰や人事の端々からも察せられる。桃井春蔵の士学館では中伝目録を許され、武市の西国行きにあたってもこれに随行、豊後岡藩での修行にも励んだ。文久元年、江戸で土佐勤王党に加盟し、翌年には参勤交代の御供として京都にのぼり、三条実美や姉小路公知の江戸下向にも勅使護衛として従った。同年、江戸下向前の京都において多くの天誅事件にかかわったことから後世「人斬り以蔵」と称されるにいたり、文久三年には龍馬らとの伝手から勝海舟の護衛についたものとみられ、刺客からその命を救っている。やがて尊攘派の衰退後、以蔵は商家への押し借りを理由に京都の町奉行所に捕縛され、入れ墨のあと今度は土佐藩に捕縛された。土佐へ護送後、厳しい拷問のすえ多くの天誅を自白し、土佐勤王党の獄拡大の端緒をつくった。のち梟首に処される。

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北添佶磨  土佐藩庄屋北添与五郎の五男。学問を土佐で間崎哲馬、江戸で大橋訥庵に学び土佐勤王党に加盟。文久三年に同志安岡斧太郎・能勢達太郎・小松小太郎らと藩を脱して蝦夷地の調査へとむかう。この調査が龍馬の依頼もしくは示唆によるものだともいわれるが確証はない。ともあれ、北添は蝦夷地調査の結果を龍馬につたえ以後、龍馬は蝦夷地開拓の構想を「積年の思い」とするようになる。元治元年、京都に入った北添の身を案じた龍馬は、すみやかな退京を説いたものの北添は忠告に耳をかすことなく、池田屋事件が勃発。北添は潜伏先の方広寺付近を襲撃され、武器や手回り品を残しながらも脱出。同志の安否を気遣い池田屋付近に姿をあらわしたところで周辺の残党狩りにあい殺害された。北添が池田屋に集合していなかったのは北添自身、いまだ龍馬と共に蝦夷地開拓の構想を持ち続けていたためだろうか。贈従四位。

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肖像無  土佐藩新白札格望月団右衛門の二男。龍馬と親しい望月清平は兄にあたる。文久年間、土佐勤王党へ加盟したともされるが誤説か。文久二年、山内容堂の護衛のため五十人組の一人として土佐を出立。翌年、龍馬の紹介で勝海舟の門にはいり、藩から航海術修行をめいじられ摂海測量などに従事している。元治元年、龍馬や同志らの蝦夷地開拓計画にくわわり、源義経の紋がはいった幔幕を用意しては、渡航のさい地元民との融和をはかろうと計画している。しかし同年、池田屋におけるの会合へ出席しているところを新選組におそわれ負傷、池田屋を脱出後、二条角倉邸付近にて自刃して果てている。その亡骸をみた人々は「十代くらいの若者」といった印象をのこした。贈従四位。
 なお「松尾甲之進」という変名も後世に伝えられているが、同名の別人が長州藩に当時実在するので注意されたい。

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(平成某年某月某日識)

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