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坂本龍馬の目録

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土佐藩(二)


山内容堂  山内家支族山内豊著の長男。山内豊熈・山内豊惇と藩主が相次いで死去したため分家から養子入りし、第十五代目土佐藩主を襲封。剣術や詩文には殿様芸を超える非凡さを見せ、藩政を積極的に主導改革にのりだす吉田東洋を参政に起用している。一方、幕府の将軍継嗣問題では一橋派に属したため井伊直弼から謹慎を命じらたが、四年後の文久二年に復帰して公武合体派の重鎮として活動。後藤象二郎らを大監察に起用し、土佐勤王党に弾圧をくわえた。中央政界では参与会議・四賢侯会議などに出席したものの空回りが続く。情勢が討幕派に傾くや後藤象二郎を通じて提唱された龍馬の大政奉還案を入れ、これを幕府に上奏。大政奉還を実現させ、小御所会議では岩倉具視らを一時圧倒するほどの手腕を見せるも、幕府側が薩摩藩の挑発にのせられる形で討幕派に屈服した。
 維新後は内国軍事総裁などを歴任したが明治五年に脳卒中で倒れ死去。贈従一位。

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後藤象二郎  土佐藩馬廻組後藤助右衛門の子。はやくから父を失い義理の叔父にあたる吉田東洋の薫陶をうけ、その少林塾に学ぶ。東洋が参政職に復帰すると推挙されて藩政に参加。大坂は住吉陣営の普請奉行などを歴任するも東洋暗殺後は失脚し、江戸に出て航海術・蘭学などを修行した。文久三年、山内容堂が藩政の実権を握ると大監察に抜擢され土佐勤王党を弾圧。以後、東洋の政策を引きつぎ藩の近代化を積極的に推進したが藩外の情勢が尊王派に傾くと、龍馬と長崎は清風亭で会談。二人は仇敵の間がらを越え意気投合し、以後の後藤は積極的に海援隊の後援にあたり龍馬の「船中八策」をうけ、大政奉還案を容堂に進言している。
 維新後は征韓論争にやぶれ下野したが自由民権運動に加わったり、黒田・伊藤内閣で大臣をつとめるなど旺盛な活動を続けた。陸奥陽之助が『後藤伯』で評するところの「失敗の英雄」。伯爵。

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乾退助  土佐藩馬廻組乾正成の長男。後藤象二郎と同じく吉田東洋に師事し、その推挙で藩政に参加。山内容堂の側近として仕え、江戸に出て会計職・軍務職などをつとめた。文久三年に中岡慎太郎と知りあい強い感化を受け、上士には珍しく討幕を構想、兵制改革を行っている。慶応三年に中岡の紹介で西郷吉之助と面談。薩土密約を結び戊辰戦争では迅衝隊大隊司令兼総督として近藤勇ひきいる甲陽鎮撫隊を敗り、北関東・会津と転戦。みごと会津若松城を攻略している。ちなみに甲州に入るさい、乾性を先祖の板垣信方の板垣性に改めている。
 新政府では西郷の推挙により参議をつとめたが征韓論争に敗れ辞職。土佐に立志社を設立し自由民権運動の先頭に立って活動した。山県有朋は乾を「板垣は自由民権などやらずに、軍人の道を選べば元帥の器じゃ」と評している。伯爵。

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福岡藤次  土佐藩家老の分家福岡左近兵衛の二男。吉田東洋に師事し、例にもれず東洋の推挙で藩政に参加。東洋没後は後藤象二郎・乾退助らと共に辞職。文久三年、山内容堂の改革で復職し、藩主山内豊範の側役を勤め、江戸や京都で重臣として活動している。はじめ佐幕的な思想をとっていたが慶応三年頃に尊王派へ転向。後藤と共に海援隊・陸援隊の結成に尽力し、後藤が主に海援隊の後援を行うのと同時に福岡は主に陸援隊の後援にあたった。また討幕の気運が高まるなか後藤と大政奉還の成否確認のため藩を代表して二条城へ上っている。
 新政府では三岡八郎・桂小五郎らと共に龍馬の「船中八策」を基盤とした「五箇条の御誓文」の原案を起草、第一条の修正を行う。維新後は元老院議院や参議兼文部卿などの要職をつとめた。子爵。

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佐々木三四郎  土佐藩上士佐々木高順の長男。生まれる以前に父を亡くし、苦境のなかで文武を修める。尊王の志が厚く、藩の要職に就きながら土佐勤王党とたびたび会談。旧門閥から非難を受けることもあった。慶応二年、山内容堂の命令で太宰府の三条実美を訪ね、九州情勢を探索。幕府の長州征伐のさいに藩主豊範が妻(長州藩主毛利敬親の娘)と離婚しようとしたため、これに猛反対し「竹鑓先生」とアダ名された。龍馬や海援隊とも親しく、龍馬は女遊びに誘う手紙を佐々木に書き送ったり、下宿先にやって来ては自分の家のようにして宿泊するなど深い交流を重ね、のちに佐々木は「才谷と自分との間には、随分面白い事が多く、今思へば実に抱腹する事もあった」と回顧している。
 龍馬没後は海援隊を手厚く保護し、海援隊士らもふかく佐々木を信頼。維新後は参議つとめ岩倉使節団に随行。要職を歴任して晩年は皇女の教育や皇太子妃の選定などにあたった。侯爵。

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岩崎弥太郎  土佐藩地下浪人岩崎弥次郎の長男。岡本寧浦に学問を学び、安政元年には奥宮慥斎の従者として江戸へ留学、安積艮斎に学ぶ。帰国後、後藤象二郎との縁で吉田東洋の私塾少林塾に学識を認められ入門。新おこぜ組の党類と目されるも身分の低さが災いしてか下横目など下級役人にしかなれぬこともあって辞職。材木業を営んだが藩の専売法ために破産した。のちに後藤が藩政に返り咲くや弥太郎も藩庁へ復職し、開成館長崎出張所・土佐商会で貿易関係の経営を主任。手腕を評価され、のちには上士階級まで昇格している。史料上、慶応三年の長崎で龍馬と出会い、刀の貸し借りや共に酒を酌み交わすなど親しい交流をかさねた。
 龍馬没後、佐々木三四郎と藩船の使用方について意見があわず辞職。藩の少参事などをつとめたのち海運業にのりだし、三菱財閥の基礎を築き上げた。

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(平成某年某月某日識)

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