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坂本龍馬の目録

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恩師


河田小龍  土佐藩で水主をつとめる土生玉助の長男として生まれる。家督を弟に譲り、自らは地侍となり祖父の川田姓を継ぐ。土佐で学問を岡本寧甫に学び安政三年、吉田東洋に従い京へ上り、狩野派の画を狩野山梁に学んだ。またアメリカ帰りの中浜万次郎の取り調べにあたり『票巽紀略』と題する書を藩に献上。藩の薩摩行きには図取役としてこれに同行し、反射炉等の見学を行なった。龍馬には海軍論と開国貿易論を説き、大きな影響を与えたとも言われるが『票巽紀略』の内容や同時代資料ではない『藤陰略話』の記述などのため、その影響力には疑問符を投げかける歴史家も多い。しかし、社中・海援隊の基礎を築く、長岡謙吉・近藤長次郎・新宮馬之助らの人材を育てた功績は龍馬にとって決して小さなモノでは無いだろう。なお小龍は文久年間に龍馬の資金援助を得、製塩業を営んだが慶応のころには失敗に終わったという。

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肖像無  北辰一刀流の祖・千葉周作の実弟。父の千葉幸右衛門から北辰夢想流、浅利義信から小野派一刀流を修行。周作に勝るとも劣らぬ剣の使い手で「小千葉」と称された。周作が北辰一刀流を創始すると二人で道場破りに精を出し、流派の宣伝につとめ、玄武館に道場破りが訪れると定吉が、その相手となり、敗れることは無かったという。また定吉には経営の才があり、定吉がいなければ玄武館があれだけ隆盛を極めたかどうか解らないとまで言われる。のちに定吉自身も道場を経営し、嘉永六年には鳥取藩の剣術師範をつとめ同じ頃、龍馬も定吉の道場へ入門している。安政四年、定吉は龍馬を塾頭に任じ、翌年には「北辰一刀流長刀兵法目録」を授け、龍馬と娘・佐那の婚約を「坂本ならば」と許し、土佐の坂本家にその旨を伝える手紙を出したとも伝わる。
 明治十二年一二月五日没。享年は不祥とも六十八歳であったとも伝わる。

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肖像無  土佐藩郷士市川勇次郎の二男。剣術を小栗流の日根野左右馬に学び、その腕を見込まれて天保六年に藩の許可を得て養子入り。小栗流三代目師家の座につく。日根野家は小姓組をつとめる上士の家系だったが弁治の出身が郷士であったため門下生には郷士の者が多かったようである。龍馬は嘉永元年に日根野道場へ入門。ここでの修行が泣き虫だった龍馬を逞しく成長させる契機ともなった。弁治は龍馬に「小栗流和兵法事目録」・「小栗流和兵法十二箇條並二十五箇條」・「小栗流和兵法三箇條」を授けているが、それぞれ初伝・中伝・皆伝に相当し、その中でも皆伝目録は門弟中十二名にのみ与えることが許された目録であった。弁治自身も藩内剣術九つの芸家のうち、その一家に数えられるだけの腕を持ち、城下屈指の達人であったと伝わる。なお門下には龍馬のほか那須信吾や高松太郎、檜垣清治などがいる。

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佐久間象山  松代藩で佑筆役頭をつとめる佐久間一学の子。幼少より天才ぶりを発揮し、教えられてもいないのに三歳で易の六十四卦を諳んじることが出来たという。以後、漢学・和算・朱子学・砲術・蘭学・西洋技術など数多くの学問を学び、どれも一流の学識をそなえるに至る。龍馬は嘉永六年から短期間ではあるものの象山の私塾で砲術の修行に励んでおり、同塾は免許制のない一風変わった塾で、儒学の平習も義務ずけていたという。この塾には龍馬の他に勝海舟・吉田松陰・河井継之助・橋本左内ら英才たちが名をつらねる。象山は勝の妹 順を嫁としてむかえ、勝の雅号「海舟」は象山の揮毫した扁額に基因する。嘉永五年、象山を後援した藩主真田幸貫の死後、藩内では孤立したが文久二年に土佐や長州から招聘の沙汰があり、文久三年には幕府の命をうけ上京。元治元年、政治的には公武合体の立場をとったため尊攘派の河上彦斎らに白昼堂々暗殺された。贈正四位。

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肖像無  土佐藩で代々の持筒役をつとめる家の徳弘石門の長男。土佐藩十三代目藩主山内豊熈の命により高島秋帆の高弟 下曽根金三郎から高島流西洋砲術を修行し、同時に南画を学んだ。天保十三年に下曽根から皆伝を許され土佐へ帰国。土佐では砲術と絵画の教授をおこなう塾を開き、のちに藩内の砲術芸家五家の内その一家に数えられた。同流の門人帳によれば、一般的に龍馬の入門は安政六年からとされるが、以前にも考蔵のもとで砲術稽古に参加した記録もみられるため安政六年の入門は再入門だったと考えられる。龍馬は砲術稽古でのちに奥義を許される人物たちと共に稽古へ参加していることから奥義に類するだけの実力を備えていたものと推測されている。ちなみに考蔵の門下には龍馬の他にも兄である坂本権平・武市半平太・岡田以蔵・門田為之助などがいる。なお龍馬は孝蔵の門以外にも西内清蔵や寺田左右馬のなど、複数の師のもとで砲術修行を行っている。

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千葉周作  陸奥国花山村(出生地には異説あり)の医師千葉幸右衛門の二男。父から家伝の北辰夢想流を学び文化六年に家族揃って江戸へ移住。小野派一刀流を浅利義信および中西忠兵衛に学び、腕を見込まれて浅利義信の姪・お勝の婿として浅利家に養子入りした。だが剣術に対する考え方の違いから妻子を連れて浅利家と離別。その後、関東や東海へ諸国武者修行の旅に出ている。江戸に帰府後、日本橋で道場を開き、のちに神田お玉ヶ池に玄武館を開設。自ら創始した北辰一刀流の宣伝をかねて弟 千葉定吉と共に道場敗りに精を出すこともあったと言う。玄武館は江戸三大道場の筆頭として隆盛を極め門に学んだ者は数千人を超える。龍馬自身は定吉の小千葉道場への入門者だが『玄武館出席大概』と言う在籍者名簿にはその名を確認する事ができ、同じく千葉重太郎の名も確認できる事から道場間での交流があったものだろう。周作は安政二年一二月一〇日死去、享年六十二歳。

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(平成某年某月某日識)

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