space_space.gif
 龍馬堂>>えにし>>土佐藩(五) 
space_space.gif
坂本龍馬の目録

土佐藩

LinkMark其之一

LinkMark其之二

LinkMark其之三

LinkMark其之四

LinkMark其之五

えにし

LinkMark海援隊(社中)

LinkMark土佐藩

LinkMark長州藩

LinkMark薩摩藩

LinkMark幕府

LinkMark朝廷

LinkMark諸藩

LinkMark新選組・見廻組

LinkMark恩師

LinkMark家族

LinkMark女性

LinkMarkその他

坂本龍馬

LinkMark龍馬概略

LinkMark龍馬日譜

LinkMark龍馬詩評

LinkMark考龍馬伝

LinkMarkえにし

LinkMark関連本など New

space_space.gif

土佐藩(五)


肖像無  土佐藩士毛利源六の二男。剣術を小野派一刀流麻田勘七に学び、同門の武市半平太と知りあう。安政年間に江戸へ遊学し、北辰一刀流玄武館へ入門。『玄武館出席大概』にも、その名が明記されていることから龍馬とは同時期の同門ということになる。余談だが『玄武館出席大概』に記されている土佐藩士のうち、筆者が確認ができるだけで、少なくとも龍馬をふくめた五名は土佐藩で師範代に列するだけの腕前を持っている。文久元年、大坂住吉陣営が落成されると剣術指南役として勤務し、藩では佐々木三四郎・谷守部らと上士尊王派として活動。慶応三年、龍馬や中岡慎太郎とも親しく交わり薩土密約に参加。龍馬の愛刀「吉行」がたいそう気に入ったようで、龍馬に刀を譲ってくれるよう、しきりに願ったりしている。
 維新後は新政府へ出仕して弾正少忠、侍従、静岡県参事などを歴任した。

mark_utarntop.png PageTop 


肖像無  土佐藩馬廻組斎藤弥三八の子。幼い頃から文武に励み、十三代目藩主山内豊熈の御側物頭をつとめる。馬淵嘉平のおこぜ組に属し活躍したが天保十四年、「おこぜ組の獄」のため失脚。嘉永年間、吉田東洋に抜擢され、今度は新おこぜ組の一員として活動した。のちに近習目付、上士銃隊の総練教授などをつとめ、慶応年間には仕置役へすすみ参政となる。慶応三年、イカルス号事件にさいし来訪したイギリス公使パークスを相手に後藤象二郎・佐々木三四郎らと事件の談判へのぞんでいる。また龍馬がライフル銃千挺を土佐へ輸送したさいには、銃器の受け取りについて龍馬と会談。藩の軍事力増強に一役かっている。
 維新後、新政府へ出仕し、名を「斎藤利行」と改め、明治三年に刑部大輔から参議へとすすむ。翌年には新律綱領撰修の功を認められ明治八年、元老院議官となった。

mark_utarntop.png PageTop 


肖像無  土佐藩士本山伊平の子。学問を鹿持雅澄、絵画を徳弘考蔵、砲術を田所左右次、剣術を小野派一刀流麻田勘七について学ぶ。嘉永六年、山内容堂の側小姓となり安政三年に幡多郡奉行、同五年に安芸郡奉行をつとめ、安芸郡在任中は謫居中の田所を招いて砲術の練兵稽古をおこなった。文久元年、山内豊範の御側物頭となった翌年、藩主の参勤に従い上洛。三条実美・姉小路公知の勅使下向にあたっても上士尊王派として尽力した。慶応二年には大監察となり翌年、ライフル銃千挺を土佐へ輸送して来た龍馬と会談。この頃は安芸郡在任中に知りあったという中岡慎太郎つうじて武力討幕に積極的な意見をもっていたようだ。
 その後、藩兵を率いて上洛し鳥羽伏見の戦い後、土佐藩へ錦の御旗を運んでいる。維新後、松山県参事となったが晩年は京都賀茂神社の宮司として余生を過ごす。

mark_utarntop.png PageTop 


肖像無  土佐藩郷士高松益之丞の長男。母は龍馬の祖母の妹 井上千代、妻は龍馬の姉 千鶴、龍馬から見れば義兄にあたる。江戸で経書を修め、絵画を楠瀬大枝、書と篆刻を壬生水石について学ぶ。剣は松村茂達について長谷川流居合術を修行し、奥義の伝授をうけたという。天保十一年に家督を継ぎ、山内容堂からも再三招聘されたが固持してうけず、諸国をめぐって文人や学者らと親しく交わった。また多くの和歌を『採樵歌』としてまとめ、自身の政治上の思想は『経国至言』として郡奉行に呈している。のちに家塾を設け、安芸郡の志士たちをよく育てた。龍馬も深く、この義兄に傾倒したようで泊まりがけで高松家へ遊びに行っていたという話しや後年、伏見寺田屋を評して「順蔵さんの家におるような心持ちにて」と、その親しさを伝えている。
 明治九年、安芸郡安田村にて享年七十歳で没する。

mark_utarntop.png PageTop 


土方楠左衛門  土佐藩用人格土方理左衛門の子。江戸で佐藤一斎に学び、文久元年には土佐勤王党に加盟。文久三年、藩命により三条実美の衛士となり学習院御用掛として活躍。同年の八月一八日の政変後も三条に従い西下、七卿のもとへ集まっていた衛士らをよくまとめた。元治元年、禁門の変にさいし、自身の出陣を三条に請うも許されず、敗戦後は中岡慎太郎と謀って薩長同盟に奔走。慶応元年、龍馬と共に桂小五郎の説得にあたって以後、後事を龍馬に託し自身は太宰府にあって、よく五卿を助けた。
 慶応三年一二月、龍馬・慎太郎暗殺の報を太宰府で知るや自らの日記『回天実記』に「実以遺恨忿概之次第なり」と記し、両雄の死を嘆いている。維新後は東京府判事、鎮将府弁事などをつとめたのち太政官へ出仕し、農商務大臣、宮内大臣などを歴任。また帝室制度取調局総裁、皇典研究所長などをつとめた。伯爵。

mark_utarntop.png PageTop 


山本琢磨  土佐藩白札郷士山本代七の長男。山本家は龍馬の父 八平の実家で、龍馬と琢磨は再従兄弟の関係にあたる。安政年間に江戸は桃井春蔵の鏡新明智流士学館にて剣術を学ぶ。安政四年、酒に酔ったあげく商人から時計を収奪するという事件をおこしたが、龍馬と武市半平太の計らいによって藩を脱走。前島密と知りあい、箱館神明社の宮司沢辺悌之助の婿養子となった。慶応元年、ギリシャ正教会の神父ニコライを殺害しようとして訪ねたところ逆に説き伏せられ、深くギリシャ正教を信仰するにいたる。
 明治元年、日本初のギリシャ正教徒として洗礼をうけ「パウエル」の洗礼名を授かり以後、ニコライを助けて伝道につとめた。一時、禁教化の地で布教をおこない入獄することもあったが屈せず、全国を精力的にまわり、日本人として初めて司祭へとのぼる。明治十七年、東京神田へニコライ聖堂を建設するにあたり、種々の尽力をおこなった。

mark_utarntop.png PageTop 


(平成某年某月某日識)

mark_utarntop.png PageTop 

space_space.gif
space_space.gif
 龍馬堂>>えにし>>土佐藩(五) 
space_space.gif