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坂本龍馬の目録

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海援隊(二)


高松太郎   土佐藩郷士高松順蔵の長男。母は龍馬の姉 千鶴、龍馬からみれば甥にあたる。父 順蔵の、あるいは叔父 龍馬の影響からか剣術に精励し、万延元年には九州へ武者修行の旅に出、そのさい同じく西国遊歴中の武市半平太に出会い、のち土佐勤王党に加盟する。文久二年、勤王党の一員として藩主を奉じて上洛し、同年の三条実美ら攘夷別勅使派遣にあたっては護衛役としてこれに随行した。文久三年、龍馬の誘いと藩命をうけ勝海舟の塾へ入門。その後、社中・海援隊と龍馬にしたがい薩長同盟にあたっては近藤長次郎の補佐役をになった
 慶応四年、権判事として箱館府に在勤。蝦夷地開拓の建白書を新政府へ提出し、自らも箱館戦争に従軍、軍功をあげ金一千両と刀剣一口を賜ったという。明治四年、龍馬の跡目相続と永世十五人扶持を賜り宮内省へ出仕したが、キリシタンとの疑いをうけ免職された。

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千屋寅之助  土佐藩庄屋千屋民五郎の三男。土佐勤王党に加盟し、五十人組の一員として江戸へ向け出立したが途中、京都に残留することとなり同地で何度か斬奸事件に関わりを持つ。文久三年、龍馬の誘いと藩命をうけ、勝海舟塾へ入門。航海術の研鑽に励んだが、やがて塾は閉鎖となり、自身も厳しい浪人狩りに遭遇する。閉塾後、龍馬たちと行動をともにし社中・海援隊と幹部として活躍。慶応二年の四境戦争にさいしてはユニオン号の船将をつとめ海戦に参加した
 龍馬没後、楢崎龍の妹 君江と婚を結び、戊辰戦争では振遠隊の軍監をつとめ、明治初年に白峰駿馬と米国ラトガ−ス大学へ留学した。帰国後、勝海舟の紹介で海軍に奉職、鹿児島へとおもむき私学校生徒の爆発にさいしては弾薬の盗用をふせぐため、その処分にあたった。こののち官職を離れ、失敗はしたが福島県安積原野の開墾に取り組んでいる。

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白峰駿馬  越後長岡藩士鵜殿瀬左衛門の三男。文久二年、長岡藩を脱して江戸の兄 鵜殿団次郎をたより、勝海舟が頭取をつとめる築地軍艦操練所に学ぶ。元治元年ごろ入門した勝海舟塾で龍馬と知りあい閉塾後も龍馬ら社中に合流し、行動をともにする。社中・海援隊では、その中心人物の一人として活躍し野村辰太郎とともに太極丸の船将をつとめ、慶応三年の龍馬・中岡慎太郎の暗殺時は数少ない海援隊士の一人として陸奥陽之助と滞京中だった
 明治初年、千屋寅之助とともに米国ラトガース大学に留学。ニューヨーク海軍造船所で造船技術を学び「造船術修行優等証」を贈られる。帰国後、洋式造船の嚆矢「白峰丸」二百トンを造船し、白峯造船所を建設。岩崎弥太郎の三菱商会とも提携したが明治十八年に倒産。のち再建に成功したものの金融恐慌の煽りうけ再び倒産し、晩年は発明と研究に没頭、政府から「勲六等瑞寳章」を賜った。

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新宮馬之助  土佐藩郷士寺内信七の二男。嘉永六年、高知城下の叔母の家へ寄宿し、焼継業を手伝いながら河田小龍に学問と画を学ぶ。画術に優れ、その筆と伝わる劉備玄徳図が今なお現存しており、楢崎龍は馬之助が女性のヌード絵を描いていたという話を伝えている。文久三年、焼継業の修行と称して江戸に出ていたところを龍馬の誘いをうけ勝海舟の塾へ入門。航海術を研鑽し、その閉塾後、社中・海援隊と行動をともにし活躍する。
 維新後、蝦夷地の開拓に従事し浦賀海兵団に勤務。明治十六年の『海軍文武官職員録』には「中尉従七位」として馬之助の名が記されている。明治二〇年、長崎で流行病をわずらい死去としたと伝わる。余談だが馬之助は隊中きっての美男子であったらしく、龍馬はそんな馬之助に対して「君は男振りが好いから女が惚れる。僕は男振りが悪いが矢ッ張り惚れる」と語っていたという。

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石田英吉  土佐藩医師伊吹秦次の長男。はじめ龍馬の義兄 高松順蔵に学び、その縁で龍馬と知り合ったものらしい。文久元年に大坂は緒方洪庵の適々斎塾へ入門し、医術を学ぶも翌々年には藩を脱して吉村虎太郎ら天誅組に参加。敗走後、長州へと逃れ、禁門の変では忠勇隊にくわわり福井藩士と戦い重傷をおう。慶応二年、四境戦争にさいし龍馬ら社中のユニオン号で砲手長をつとめ社中・海援隊に参加した。隊では貿易などの商事にかかわり、慶応三年のイカルス号事件では嫌疑をかけられた横笛丸の呼びもどしに向かっている
 龍馬没後の慶応四年、海援隊士として長崎の治安維持にはたらき、振遠隊軍監・奥羽鎮撫総督府の参謀として秋田方面へ出征した。維新後、秋田・長崎・高知の各県令・県知事を歴任し、秋田県では県政の基礎を築いた人物として評価されている。男爵。

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安岡金馬  土佐藩庄屋安岡源七の二男。文武を田野学館に、砲術を吉村謙次郎に学び、中岡慎太郎の影響をうけ尊王攘夷運動に参加。文久二年、五十人組の一員として江戸へ向かい、千屋寅之助の紹介のもと勝海舟の門に入る。文久三年、龍馬とともに藩から航海術修行を命じられるも翌年の禁門の変にさいして脱塾、勝からは白地の筒袖を贈られ、長州の忠勇隊に参加、大砲の照準係りをつとめる。敗走後、そのまま長州へ逃れたが一時、手持ち無沙汰になっていたところ、慎太郎にすすめられ庚申丸の士官見習いをつとめることとなり、のちに長崎で海援隊に参加した
 維新後、土佐商会で順海丸の船将をつとめ、大津裁判所の判事を経て退官。その後、神戸でアメリカ人・ワッチと事業を計画したが、それが法にふれたため永禁固に処されるも、やがて赦免となり海軍省へ出仕し、海軍機関学校で教鞭をとり生徒の育成に励んだ。

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(平成某年某月某日識)

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