space_space.gif
 龍馬堂>>えにし>>海援隊(三) 
space_space.gif
坂本龍馬の目録

海援隊(社中)

LinkMark其之一

LinkMark其之二

LinkMark其之三

LinkMark其之四

えにし

LinkMark海援隊(社中)

LinkMark土佐藩

LinkMark長州藩

LinkMark薩摩藩

LinkMark幕府

LinkMark朝廷

LinkMark諸藩

LinkMark新選組・見廻組

LinkMark恩師

LinkMark家族

LinkMark女性

LinkMarkその他

坂本龍馬

LinkMark龍馬概略

LinkMark龍馬日譜

LinkMark龍馬詩評

LinkMark考龍馬伝

LinkMarkえにし

LinkMark関連本など New

space_space.gif

海援隊(三)


渡辺剛八  越前福井藩出身。いつ龍馬との交流が生じたのかは不明だが慶応二年七月下旬、大洲藩が買い込んだいろは丸に社中から上船していることから、それ以前には入隊していたものと思われる。慶応三年四月、再度いろは丸に機関方として乗り込んだが瀬戸内海で紀州藩の明光丸と衝突し、所謂いろは丸事件に遭遇。のちに龍馬は事件の交渉結果を海援隊士に伝えるさい、小谷耕三と渡辺の二人を連盟にして手紙を送っていることから隊では幹部的な役割をつとめていたと思われる。
 慶応三年一一月二七日、長崎で龍馬・中岡慎太郎暗殺の報にせっすると眼の色をかえて「是から上京して仇討をします」と主張したが佐々木三四郎に説得され断念。長崎奉行所の平定に参加後、千屋寅之助や石田英吉らと振遠隊にくわわり軍監をつとめる。維新後は諸役を歴任して屯田事務局に出仕。準陸軍大佐兼開拓少判官に任ぜられ蝦夷地の開拓に従事した。

mark_utarntop.png PageTop 


肖像無  讃岐佐柳島の人名前田音三郎の長男。嘉永六年に江戸へ出府し、安政二年には長崎海軍伝習所に水夫として採用された。長崎で勝海舟と知りあい長らく航海術の研鑽に励み万延元年、水夫として勝らと咸臨丸へ乗り込み、日本初の大平洋横断に成功する。アメリカには約五十余日間滞在して帰国。佐柳の話によると文久二年「一〇月付以来土州藩故坂本龍馬と申者ニ随従仕り逐ニ主従ノ契約ヲ相結、東西ニ奔走」したというから龍馬とは勝を介して知りあったものだろう。神戸海軍操練所閉鎖後も社中・海援隊に参加し慶応二年、ワイルウェフ号沈没事件では数少ない生存者の一人となっている。慶応三年、いろは丸に当番士官として乗り込み事故に遭遇、紀州藩の応対に怒りおぼえた佐柳は自ら明光丸へ斬り込むことを主張した
 龍馬没後、榎本軍の追討に士官として参加し恩賞をうけ維新後、回漕会社に勤務して船長などをつとめた。余談だが「佐柳高次」の名は龍馬から贈られた名前である。

mark_utarntop.png PageTop 


肖像無  長崎の書家小曽根六郎左衛門の四男。小曽根乾堂の末弟。高島秋帆に高島流西洋砲術を学び鉄砲術に秀でたことから、龍馬と一緒に楢崎龍へピストルの射撃法を教えたという。慶応三年春頃、小曽根家の別邸に海援隊が本部を設けていることからも理解されるとおり社中・海援隊を資金面で援助し、自らも海援隊に参加している。なお太極丸の購入にさいしてはその「請人」として英四郎の名を確認することができる。慶応二年八月、大坂町奉行から托された書簡を長崎奉行へ届ける途中、長州で幕府の間者ではないかとの嫌疑をうけ抑留されたが、龍馬の依頼で伊藤九三がこれをとりなし事なきをえた。慶応三四月、いろは丸に簿籌官として乗り込んだことからいろは丸事件に遭遇。事件では龍馬のはからいで紀州の明光丸に乗り込み、長崎へ事件の第一報を伝えている。
 維新後、長崎で花街通いをつづけ、明治二十三年に愛宕町の別邸にて死去。享年五十歳。

mark_utarntop.png PageTop 


肖像無  土佐藩陪臣鎌田常吉の二男。坂本権平の娘(つまり龍馬の姪)春猪の夫。龍馬が権平の養子に入らなかったことから郷士坂本家の養子となった人物で、五十人組にも参加した経歴がある。春猪との間には二人の女子をもうけたが慶応三年に脱藩し龍馬のもとへと走り、海援隊に参加した。脱藩までした清次郎だが龍馬の評価は甚だ低く、坂本乙女にあてて「何もをもわくのなき人」と評している。龍馬にしてみれば自分が原因で坂本家に入った養子が、その自分を頼って出奔して来たのだからたまるまい。そのため龍馬は坂本家に迷惑がおよばないよう後藤象二郎に相談してみたり、土佐へ帰国するよう促すなどしている。
 明治三年、土佐へ帰国し脱藩の罪を問われ禁足。赦免後、実家の兄が病死していたことから坂本家を離退し鎌田家の跡目を継いた。その後、保守系の新聞で仮編集長兼印刷長をつとめたのち三大事件建白運動に参加。やがて坂本直寛宅に同居していたが明治二十三年広島市へ移住。その地で没した。

mark_utarntop.png PageTop 


肖像無  土佐藩白札格野村亀四郎の長男。野村家は藩内芸家に含まれてはいないものの代々の砲術家で、辰太郎も江戸に出ては江川太郎左衛門につき高島流西洋砲術を学んだ。のちにその実力を認められてか藩の砲術教授の役にのぼっている。その後、龍馬から神戸勝塾への入門を誘われるが果たせず、土佐を慶応二年に脱藩して社中に参加。社中では白峰駿馬と太極丸の船将をつとめ海援隊に再編成さてたのちも在籍し活躍した。
 慶応三年一一月、龍馬・中岡慎太郎暗殺の報を大坂で聞き他の海援隊士らと上京、葬儀に参列後、長崎へもどり同地の隊士らと奉行所平定に尽力し、薩摩藩士を誤射した沢村惣之丞の切腹に立ち会い別れ酒を酌み交わした。この後、千屋寅之助や渡辺剛八とどうよう振遠隊に軍監として加わり東北方面に出征。維新後は佐賀県権参事、茨城縣権令、控訴院検事長などをつとめた。男爵。

mark_utarntop.png PageTop 


宮地彦三郎  土佐藩御用人宮地六丞の二男。藩では「御普請方雇」として働き、文久のころ下横目をつとめ京都藩邸詰となる。のち監察役に昇進し、勤王派の志士たちと交流。自らも強くこれに感化され勤王の志を抱くようになった。龍馬とは文久三年二月に知りあい、脱藩罪赦免のため謹慎する龍馬を大坂から京都へ警護する。同年一〇月、藩を脱して絵師や医師、公卿侍をつとめながら国事に奔走。慶応三年八月頃、長岡謙吉の仲介で海援隊に加わった。ちなみに龍馬・中岡慎太郎暗殺の当日、大坂出張から帰った彦三郎は近江屋の一階から二階の龍馬・中岡と会話を交わし、出張の労をねぎらわれている。
 龍馬没後「以後、才谷位のごふけつハ土州には生じ不申」と嘆き、天満屋への斬り込みに参加。鳥羽伏見の戦いに加わって以後、長岡謙吉と四国平定活動に奔走。塩飽諸島でおきた人名と問人の階級闘争を解決し現在でも島の「神様」として祭られている。維新後、官を辞し小学校で教鞭をとった。

mark_utarntop.png PageTop 


(平成某年某月某日識/平成三〇年五月日九日訂)

mark_utarntop.png PageTop 

space_space.gif
space_space.gif
 龍馬堂>>えにし>>海援隊(三) 
space_space.gif