space_space.gif
 龍馬堂>>えにし>>長州藩(二) 
space_space.gif
坂本龍馬の目録

長州藩

LinkMark其之一

LinkMark其之二

えにし

LinkMark海援隊(社中)

LinkMark土佐藩

LinkMark長州藩

LinkMark薩摩藩

LinkMark幕府

LinkMark朝廷

LinkMark諸藩

LinkMark新選組・見廻組

LinkMark恩師

LinkMark家族

LinkMark女性

LinkMarkその他

坂本龍馬

LinkMark龍馬概略

LinkMark龍馬日譜

LinkMark龍馬詩評

LinkMark考龍馬伝

LinkMarkえにし

LinkMark関連本など New

space_space.gif

長州藩(二)


三吉慎蔵  長府藩の今枝流剣術師範小坂土佐九郎の二男として生まれ、田辺家および三吉十蔵のもとへ養子入り。藩校敬業館・長州藩明倫館で文武を学び鑓は宝蔵院流を修行、免許皆伝を得ている。その実力は藩中に適う者なしとまで言われ「鑓の慎蔵」と称えられた。また長府藩主毛利元周から厚く信頼され側近として仕えている。慶応二年の元旦に印藤聿の紹介で龍馬と知り合い、その護衛と京都探索のため上京。薩長同盟を締結させて戻った龍馬と共に幕使の襲撃をうけたが龍馬はピストル、慎蔵は得意の鑓で奮戦し虎口を脱した。帰国後、その功を称えられ長州藩主毛利敬親から新身刀の下賜、元周から二十石の加増を賜った。また龍馬からの信頼もあつく万一の場合のお龍の後事を託されてた。龍馬没後、生前の約束通りお龍を土佐へと送り届け、その礼として龍馬の遺刀「正宗」を贈られている。
 維新後は地元で権大参事などをつとめ宮内庁に出仕、従六位に叙された。

mark_utarntop.png PageTop 


印藤聿  長府藩士下村又三郎の三男に生まれ、嘉永六年に印藤吉郎左衛門のもとに養子入り。算術と鑓術に優れ鑓術は奥伝免許を授かるほどの腕を持ち、藩では藩主毛利元周の側近として仕え活躍した。ちなみに「聿(のぶる)」の名は元周から賜ったものである。文久年間中、下関で砲台建設に尽力し、報国隊の軍監をつとめる。龍馬と知り合ったのは文久三年とも慶応元年とも言われるが現存する印藤聿宛の五通の手紙から、その親しさが知れ、龍馬から長崎亀山焼きの飯碗や湯呑みを贈られている。主に龍馬と長府藩を繋ぐパイプ役のような役割を担っていたようで、三吉慎蔵の『日記妙録』によれば「我が藩士の龍馬に交わるは印藤聿を最初とす」と記されている。
 維新後は自ら職を辞し、商人として下関に店をかまえ製塩業を営み、地方経済界で活躍した。また後に衆議院選挙に立候補して見事当選を果たしている。

mark_utarntop.png PageTop 


伊藤九三  長府藩赤間関で大年寄を世襲する本陣伊藤家に生まれる。伊藤家では代々「助太夫」もしくは「杢之丞」の名を世襲していたが龍馬から「昔の役者みたいな名前だから」との忠告をうけ、通称を「九三」へと改めている。慶応二年、下関は阿弥陀寺町通りの旅籠屋にて龍馬と知り合い、旅籠屋の主人に願って龍馬を自宅に寄宿させるようになったという。伊藤家には「自然堂」という額が掲げられた部屋があり、自ら「自然居士」と称していた九三だが、その部屋を龍馬に貸し与え「自然堂」との斎号を以後の龍馬は使用するようになる。また龍馬と九三は親しく一緒に酒を飲むことが多かったらしく、印藤聿にあてた龍馬の手紙にも「今夜も助大夫とのみ呑ており申候」と記される。ほかにも龍馬は伊藤家宅で歌会を開いたり、妻のお龍を九三方に預けるなど何かと頼りにすることが多かったようだ。なお上記の別名「フォンデンブルグ」とは長崎のオランダ商館長から貰った名である。

mark_utarntop.png PageTop 


熊野直介  長府藩士熊野吉右衛門の長男。藩校敬業館に学び、文久三年に三吉慎蔵らと藩主毛利元周の護衛をつとながら上京。翌年には藩内集童場の総管に任じられ、慶応元年には義兄にあたる印藤聿らと報国隊の参謀および軍監をつとめた。その後、四境戦争で奮戦し、その功を称えられ戦後、秩禄加増の恩賞を得ている。龍馬と出会ったのは、おそらくこの頃で義兄 印藤聿の紹介によるものだろうか。慶応三年、藩命により長崎へ出張。龍馬の佐々木三四郎宛の手紙には龍馬が直介らと酒席を共にしている様子が伝えられている。また同年一二月二日、龍馬暗殺の報を海援隊士山本復輔から知らされ、偶然ながら、まったくの同日に海援隊士佐柳高治から情報を得ていた三吉らにその報を伝えた。
 戊辰戦争に報国隊第四小隊を率いて参戦、北越において河井継之助率いる長岡軍と交戦し、一時は攻略に成功するも長岡軍の逆襲を受け、銃弾にあたり戦死した。贈従五位。

mark_utarntop.png PageTop 


肖像無  赤間関で海陸運送業を営む白石卯兵衛の長男。家は「小倉屋」の屋号を持つ豪商で文久元年には薩摩藩の御用達となった。正一郎自らも尊王の志が篤く、自宅へ立ち寄った尊王派志士たちを何かと援助している。主な知己だけで平野国臣・真木和泉・月照・西郷吉之助・中岡慎太郎などなど数多くの人士と交流を持つ。龍馬は脱藩後、沢村惣之丞と白石邸を訪ねたと言われるが『白石正一郎日記』にその事実を確認することはできない。ちなみに龍馬の名が初めて日記に確認されるのは慶応元年一〇月七日である。文久三年、高杉晋作は白石邸で奇兵隊を結成し、正一郎はまっ先にコレに参加。隊内では会計方をつとめたが家財は次第に急迫して行ったようで高杉は「少々蓄え候黄金借出尽くされ飲み尽され」と救済を桂小五郎に訴えている。
 維新後は晩年になって赤間神宮の初代宮司をつとめた。贈正五位。

mark_utarntop.png PageTop 


毛利敬親  のちの長州藩第十一代目藩主毛利斉元の長男として生まれ天保八年に家督を継ぎ十三代目藩主の座につく。村田清風ら改革派を登用し、藩政改革を推進。この成功により長州藩は幕末期をリードする一大雄藩へと成長を遂げた。文久元年、長井雅楽の説く「航海遠略策」を入れ藩論を公武合体としたものの世上の動きや久坂玄瑞らの主張のため藩論を「破約攘夷」に転換。文久三年には勅命を奉じて攘夷を実行している。その後、禁門の変に敗れたため官位剥奪の処分を受け、恭順の意を示すため謹慎。しかし高杉晋作の挙兵が成功するや桂小五郎らの主導のもと長州藩は討幕の意志を鮮明にする。龍馬は慶応二年六月頃、敬親に拝謁し、羅紗生地などの拝領物を賜っている。これは薩長同盟あるいは四境戦争に参戦してくれた事に対する礼であろう。翌年には討幕出兵を許可して官位も復旧した。
 明治二年、薩土肥の藩主らと版籍を奉還。賞典録十万石を得て隠居、明治四年没。贈正一位。

mark_utarntop.png PageTop 


(平成某年某月某日識)

mark_utarntop.png PageTop 

space_space.gif
space_space.gif
 龍馬堂>>えにし>>長州藩(二) 
space_space.gif