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坂本龍馬の目録

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諸藩(四)


伊達藤二郎  紀州藩士宇佐美祐長の二男として生まれ、叔父にあたる伊達盛明のもとへ養子入りし、国学や和歌を本居大平について学ぶ。文化十三年、藩老公徳川治宝の小姓役を皮切りに、家老山中筑後守らの知遇を得、勘定奉行・寺社奉行・大番頭格など要職を歴任。藩財政の再建等に尽力したが、その国学的な素養から紀州尊王派の中心人物と目されたため嘉永五年に「品々如何敷趣も相聞候段、公辺[幕府]之御趣意も之有」として失脚をした。赦免後、文久二年に藩を脱し、京都粟田口で私塾を経営。この塾には龍馬も顔をだしていたようで藤二郎も龍馬を人物と見込み、養子の伊達五郎を龍馬に託すつもりだったらしいが結局、勝海舟塾へ入門していた陸奥陽之助を龍馬に託すこととなる。
 維新後、東京へと移住し明治十年、陸奥が立志社の挙兵計画に連座投獄されるまえ、七十六歳で没した。著書に『大勢三転向』・『随々草』・『余身帰』などがある。

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伊達五郎  紀州藩士成田弥三右衛門の五男として生まれ、同じく紀州藩士の伊達藤二郎のもとへ養子入り。陸奥陽之助からみれば義兄にあたる。嘉永六年、当時若年のまま藩主の座にあった徳川家茂の後見役をつとめる老公徳川治宝の死去にともない養父 藤二郎が失脚するや、五郎も城下十里四方へと追放され、のち改易。文久二年一二月、水野土佐守ら藩内の江戸派(江戸藩邸在府組)を打倒すべく、同藩横井次太夫らと藩を脱して京都へ上り、土佐藩平井収二郎らの助力を得、幕府に対し嘆願書を提出、藩政改革を訴えた。また文久三年の四月には姉小路公知に従い摂海を巡検し、龍馬と知り合ったのは文久三年初頭のことと思われ、楢崎龍の回顧談にもその名が登場している。のち元治元年、許されて紀州へ帰藩を果たすも、尊王派の後退にともない翌年には幽閉の憂き目に遭遇した。
 明治元年、藩の執政に上り録千石。維新後、広島県参事・同県令などをつとめる。

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肖像無  大和国五條村医師乾次郎平の二男。学問を梅田雲浜・森田節斎らに学び、医術を森田仁庵に学ぶ。嘉永年間、大坂で医術を学ぶ傍ら諸国の志士と交わり尊王思想をつよめ、兄の死去にともない帰郷。京都への食料確保のため奈良盆地の開墾に励み、紀州藩にたいしも材木税・筏税の撤廃を訴えるなど京や郷国のため尽力した。龍馬との関係では文久三年六月、廣井磐之助の仇討に助太刀を申しこむも佐藤与之助らに謝絶され、これを見物し「助勢の士一同凱歌を唱。山号谷応じ、凄々愴々」と、その模様を伝えている。また同月一一日、龍馬は勝海舟の使いとして乾のもとを訪ねているが、伝わるところによると、陸奥陽之助から水戸藩士兜惣助らに狙われる乾を救助してくれるよう依頼され、その命を救ったという。その後、吉村虎太郎らの天誅組に加わったが事破れ、大坂に潜伏していたところを捕縛、京都六角獄にて斬られた。享年三十七歳。

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横井左平太  熊本藩で郡代改役をつとめる藩士横井時明の長男。横井大平の兄にあたり、横井小楠から見れば甥にあたる。安政四年、幼くして父を失い叔父 横井小楠に養われ、学問を学ぶ。元治元年、小楠のすすめにより神戸勝海舟塾へ入門。このさい熊本を訪れた龍馬に同行し勝の元へとおもむいた。勝塾では旗本ではないこともあって、身元保証の必要から勝の家来として航海術の研鑽に励み、小楠にあて勝や龍馬の近況および動静などを伝えた手紙を送るなどしている。操練所閉鎖後の慶応元年、長崎はフルベッキのもとで語学を学び翌年、日本初の官費留学生としてアメリカ・ラトガース大学へ留学、政治学や法律学などを学んだ。
 その後、一旦帰国したのち再度アメリカへ渡り二年後に再帰国。明治八年、政府に元老院権少書記官として出仕するも肺結核のため同年三十一歳で死去した。

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横井太平  熊本藩で郡代改役をつとめる藩士横井時明の二男。横井左平太の弟にあたり、横井小楠から見れば甥にあたる。安政四年、幼くして父を失い兄とともに横井小楠に養われ、学問を学ぶ。文久二年、小楠が福井藩主松平春嶽に招かれたおり、これに同行して江戸へ上る。江戸では洋書調書で英学を学んでいたが小楠の蟄居にともない帰国。元治元年、小楠のすすめにより左平太や岩男内蔵允と神戸の勝海舟塾へ入門。このさい熊本を訪れた龍馬に同行、勝の元へとおもむき、勝塾では旗本ではないこともあって身元保証の必要から勝の家来として航海術の研鑽に励む。操練所の閉鎖後、長崎語学校にてフルベッキに師事し、翌年には兄と共にアメリカ・ラトガース大学に留学、航海術を学んだ。
 明治二年、肺を患い帰国し、熊本の藩政改革に翼賛。外国人教師シェーンズの招聘に尽力したが、その来国を待たずして没した。享年二十二歳。

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児島謙蔵  宇和島藩の陪臣金子惟彬の二男。幼年期に他家へ里子として出され、豪商の使用人をつとめるなどの辛苦のなか文武の修練に励む。のちに宇和島藩家老梶田長門に招かれ、万延元年には宇和島にて剣術の師範をつとめる。文久年間、隣国の土佐へ出国し幡多郡尊王派の首領樋口真吉の弟 樋口甚内について大石神影流剣術を学ぶ。この頃、龍馬と土佐で、あるいは宇和島にて知り合ったという。幕末期には計三度の脱藩を試みるほどの行動力をみせ、慶応年間には長崎で龍馬や五代才助との交流を密にし、攘夷の不可を悟るなど、龍馬に対し深く兄事していたと伝えられる。
 戊辰戦争では北陸鎮撫総督府参謀楠田英世のもと、北陸から東北にかけて情勢を探索。維新後、司法省へ出仕し、明治二十四年の大津事件では松方内閣の干渉から司法権の独立を堅持。「御法の神」と称えられた。その後、一旦の辞任をへて貴族院議員・衆議院議員などをつとめる。

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(平成某年某月某日識)

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