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 龍馬堂>>えにし>>諸藩(二) 
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坂本龍馬の目録

諸藩

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えにし

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諸藩(二)


佐藤与之助  庄内藩で農業を営む郷士佐藤与兵衛の長男。嘉永六年に藩から選ばれて江戸に上り、後藤恒俊について彫刻を、勝海舟について蘭学や砲術を学んだ。安政二年から同六年まで長崎海軍伝習所で勝のもと航海術や測量術を学び、蘭書翻訳方に登用され幕臣となる。文久三年、大坂へ赴任し、勝の大坂塾々頭や御台場の建設、神戸海軍操練所設立の準備などに携わった。この頃から龍馬との交流が確認され龍馬と共に大坂町奉行松平勘太郎に面談し、その旨を伝える連名の手紙を勝に送るなどしている。元治元年、神戸海軍操練所で教授方と塾頭を兼任し、勝塾で塾頭をつとめる龍馬と、勝の双腕として主に大坂方面で活動する。のちに龍馬暗殺の報をイの一番で勝に伝えたのも与之助であった。
 維新後、大坂府兵局・民部省・工務省などに出仕し、明治九年、肺結核を理由に自ら辞職。翌年、五十七歳で没した。贈従四位。

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中根雪江  福井藩士中根衆諧の長男。天保元年に家督を継ぎ、同九年には江戸で平田篤胤の門に学ぶ。藩で諸役を歴任後、松平春嶽に抜擢され、藩財政の建て直し、藩政改革の中心人物として活躍した。中央政界へ出た春嶽をよく補佐し、将軍継嗣問題では各藩の人物たちと交流を密にしている。一橋派の敗北後は福井での謹慎を余儀なくされたが文久二年、春嶽の政界復帰にともない自らも行動を再開、福井藩の顧問をつとめる横井小楠と公武合体運動に活躍する。龍馬は文久三年、京都福井藩邸で中根と面談し、春嶽の上洛を願う旨を伝えた。大政奉還後、永井尚志から龍馬の持論を聞いた中根は「龍馬の秘策は、持論は内府公関白職の事か」と『丁卯日記』に記している。
 維新後、福井に隠遁して著述活動に専念。『昨夢記事』『再夢記事』『丁卯日記』『戊辰日記』などの著作を世に残している。贈従四位。

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肖像無  水戸藩士住谷長太夫の長男。天保十三年、藩校弘道館の舎長に任じられる。のち藩主徳川斉昭の雪冕運動に加わり、安藤信正暗殺を計画したが禁固に処され、赦免後、軍制改革に尽力した。安政五年井伊直弼率いる南紀派打倒を願う住谷は同志大胡聿蔵らと諸国の探索および遊説のため一〇月、江戸を出立し、翌月には土佐国立川駅へ到着した。龍馬とは山岡鉄太郎の「尊攘遺墨」と題する連名帳に共に名を記されている事から見て、以前になんらかの繋がりがあったものだろうと推測される。立川駅から、かねて名を耳にしていた奥宮猪惣次と龍馬に宛、入国斡旋を願う一書を発し、龍馬は甲藤馬太郎、川久保為介と共にこれと面会したが、住谷は「誠実可也の人物」と龍馬を評しながらも政事的知識の欠落に落胆している。のちに水戸藩の大番頭軍用掛心得となり、土佐藩老公山内容堂とも昵懇の間柄となったが慶応三年、土佐藩士山本旗郎に京都で暗殺された。贈正五位。

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肖像無  大洲藩士。百石五人扶持の郡奉行。慶応二年、心極流砲術、正木流砲術、荻野流砲術を修行した経験から洋式銃購入の藩命を受け、同藩士井上将策と共に長崎へ出張。ここで龍馬と出会い、蒸気船の購入を龍馬からすすめられたとも言うが、国島ら進歩党(開明派)を糾弾する理由としてのちに頑固党(守旧派)が示した斬奸状によるば、出張前からの「密謀」を理由の一つとしてあげているため、蒸気船の購入はあらかじめ開明派上層部との計画があったようにも推測されている。ともかく国島は龍馬から五代才助を紹介され、二人の斡旋でオランダ商人ボードウィンから蒸気船サーラを四万二千五百両で購入。この船はのちに龍馬の命名で「いろは丸」と名付けられた。帰国後、越権行為を守旧派から糾弾されたが藩主の追認を得る事となり、資金調達のため長崎へ立ち戻った。しかし、国島は「金融上の問題」(詳細不明)に悩まされた結果、自ら長崎で自刃して果てている。

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肖像無  北辰一刀流開祖・千葉周作の二男。幼少時から父 周作について北辰一刀流を学び、その奥義に達する。十代で「名人」と称され、江戸随一の妙技「千葉の小天狗」と世に騒がれた。清河八郎は門弟五千人とも言われる玄武館において十五歳の栄次郎を実見し「門下これに秀る者なし」と感嘆している。山岡鉄太郎、海保帆平、松崎浪四郎、斎藤歓之助、桃井春蔵らの強剛と勝負を決し、勝ちを制せざる事がなかった。周作没後、弟 千葉道三郎と共に玄武館を経営。この頃、龍馬の在籍を確認することができる。伝えられるところによれば栄次郎は龍馬と互いに「意気投合」し、栄次郎も国事へ奔走するようになったと言う。玄武館は水戸藩との繋がりが強く、千葉周作親子も水戸藩へ出仕し、栄次郎も嘉永六年に小十人組として召し抱えられ、最終的に大番格まですすんだが文久二年、三十歳で病死した。

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河田左久馬  鳥取藩士河田景介の子。鳥取藩尊王派の中心人物。嘉永四年に家督を継ぎ、のちに伏見と京都の留守居役をつとめる。文久三年、同藩士詫間樊六らと藩の用人黒部権之介らを京都にて斬殺し、謹慎・幽閉処分を受けるも慶応二年、尊王の大義を成さんと欲し、同志らと長州へ脱走した。龍馬は慶応三年三月に左久馬宛の手紙を発しており、これによると龍馬は蝦夷地の開拓に左久馬を誘うつもりであったようが同年四月に「いろは丸事件」が勃発したため計画は頓挫する。この「いろは丸事件」の直後、長崎へ戻る帰路の途中、龍馬は芸州は御手洗において左久馬と出会い、偶然の邂逅に談笑後、事件の概略について語り合っている。
 慶応四年、戊辰戦争に東山道先鋒総督府参謀および大総督参謀として参戦。維新後は鳥取県権県令や元老院議官などを歴任した。子爵。

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(平成某年某月某日識)

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